呉の武将って、なんだか影が薄いと思ってませんか。
三国志といえば劉備・曹操・諸葛亮。
そっちばかりが目立って、
呉の人物はゲームでちょっと見たことあるくらい、
という方も多いんじゃないでしょうか。
でも実は、呉こそが三国の中で一番長く生き残った国なんです。
222年から280年まで、約58年。
蜀よりも魏よりも長く続いた理由が、
この国の人物たちを見るとじわじわ分かってきます。
孫堅・孫策・孫権と三代にわたって積み上げた
「ファミリー企業」の強さ。
周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜という四大都督の継投リレー。
そして名前は知らなくても、
じつはすごい仕事をしていた文臣・武将たちを110人紹介していきます。
人物が多くて混乱する、というのはよく分かります。
でもこの記事を読めば、呉という国の輪郭が少しずつスッとつながってくるはずです。
このブログは、三国志が「好き」で終わらず、
「ちゃんと分かる」物語へと変わっていく、
その過程を一緒にたどる場所です。
もしも、三国志が本当に分かったら。
その最初の一歩を、ここから始めましょう。

利を見ては動くべし!お得な情報、見逃すなよ?
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このページでは呉の武将110人を一覧で紹介しています。
グループ別または検索窓から探せます。
❓ 呉(孫呉)ってどんな国?
A:孫堅が江東に築いた基盤を、孫策が平定し、孫権が222年に皇帝を宣言して正式に建国。三国の中で最も長く続いた国で、280年に晋に滅ぼされるまで約58年間存続しました。
❓ 呉の武将が多すぎて覚えられません……
A:無理に全員覚えなくて大丈夫です。①君主・皇族 ②后妃・外戚 ③都督・重臣 ④幕僚・文臣 ⑤猛将・武将 ⑥学者・方技・その他の6グループに分けると、ぐっと整理しやすくなります。
❓ 呉と魏・蜀はどう違うの?
A:蜀が「義理と人情のベンチャー企業」、魏が「超合理主義・実力主義の大企業」なら、呉は「コネと実力が同居するファミリー企業」。孫家の血縁と優秀な外様人材が絶妙に混ざり合った国です。
❓ 呉で一番有名な武将は誰?
A:赤壁の戦いで曹操を破った周瑜がダントツです。ほかにも関羽を討ち取った呂蒙、夷陵で劉備を破った陸遜、苦肉の計で知られる黄蓋など、個性豊かな武将が揃っています。
❓ 孫権はなぜ58年も国を保てたの?
A:周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜という四大都督の継投リレーが大きな理由です。加えて、蜀と同盟を結ぶ外交センスと、長江という天然の要害を活かした守りの戦略が呉を長命にしました。
呉ってどんな国?「ファミリー企業」孫呉を3分で理解する


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
血筋と実力が絶妙に混ざった国なのじゃ
三国志の中で、
呉はちょっと地味に見られがちな国です。
劉備の熱い義侠心も、曹操の圧倒的な実力も、
どちらもない。
でも実は、三国の中で一番長く生き残ったのは呉なんです。
蜀が263年に滅び、魏が265年に晋へ禅譲される中、
呉だけは280年まで戦い続けました。
なぜそんなに長く続いたのか。
答えは「ファミリー企業」という構造にあります。
孫堅が江東に基盤を作り、孫策が武力で平定し、孫権が外交と内政で守り抜く。
この三代のバトンリレーが、
呉という国の骨格を作りました。
そして孫家の血縁者が要職を固めながら、周瑜・魯粛・陸遜といった外様の天才たちが実務を担う。
コネと実力が絶妙に同居した、独特の組織文化が呉の強さでした。
とはいえ、晩年の孫権は後継者争いで国を乱し、末帝・孫皓の暴政で呉は内側から崩れていきます。
ファミリー企業の強みは、そのままファミリー企業の弱みでもあったんですね。
この記事では、そんな呉という国を彩った110人の人物を、6つのグループに分けて紹介していきます。

うちの国が地味?……まあ、派手さより長生きの方が大事だろう
君主・皇族|孫家三代と皇族たち


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
孫家三代の継投が呉の屋台骨なのじゃ
呉という国は、孫家三代の積み上げで成り立っています。
孫堅が種をまき、孫策が耕し、孫権が実を刈り取る。
この流れを知るだけで、呉という国がぐっと立体的に見えてきます。
皇族の中には早世した者、後継争いに敗れた者、暴君として歴史に名を残した者もいます。
ファミリー企業の光と影が、そのままここに凝縮されているんです。
孫堅 文臺(そんけんぶんたい)
呉の実質的な創業者です。
後漢末の武将として董卓討伐に加わり、「江東の虎」と恐れられました。
演義では「玉璽(ぎょくじ)を隠した男」としても有名ですね。
191年、荊州の劉表との戦いで流れ矢に当たり、わずか37歳で戦死。
息子たちに夢を託したまま散った、呉の原点となる人物です。
孫策 伯符(そんさくはくふ)
孫堅の遺志を継ぎ、江東六郡を電撃的に平定した「小覇王」です。
わずか数年で江東を制圧したその勢いは、曹操をして「狂犬のようで、まともに争うのは難しい」と警戒させました。
まさに天才型の武将です。
しかし200年、刺客に襲われた傷がもとで26歳の若さで死去。
弟・孫権に後事を託し、「外のことは周瑜に、内のことは張昭に」という言葉を残しました。
孫権 仲謀(そんけんちゅうぼう)
呉の初代皇帝にして、三国時代最長の在位を誇る君主です。
赤壁の戦いで曹操を退け、関羽を討ち取り、夷陵で劉備を破る。
外交と戦略を使い分けながら、呉を58年間守り続けました。
曹操に「生子当如孫仲謀(息子を持つならこういう子を持ちたい)」と言わしめたほどの器量の持ち主。
ただし晩年は後継者問題で国を混乱させ、その判断力に陰りが見えるのも事実です。
孫翊 叔弼(そんよくしゅくひつ)
孫権の弟で、豪快な気性は兄・孫策に似ていたといわれます。
丹楊太守に任じられましたが、部下の媯覧・戴員に暗殺されました。
妻・徐氏が夫の仇を討ったエピソードが正史に残っており、夫婦の絆が印象的な人物です
孫瑜 仲異(そんゆちゅうい)
孫権の従弟で、学問を好んだ温厚な人物です。
丹楊太守として地方統治に当たり、士民に慕われました。
武よりも文を重んじた姿は、武断的な孫家の中では少し異色の存在といえます。
孫皎 叔朗(そんこうしゅくろう)
孫権の従弟で、宿将・程普の後任として夏口を督しました。
呂蒙と共に荊州攻略にも参加した実戦派です。
若くして亡くなりましたが、孫権から篤い信頼を受けた人物でした。
孫奐 季明(そんかんきめい)
兄・孫皎の死後、その軍を引き継いだ孫権の従弟です。
江夏太守として魏への備えを担い、地味ながら堅実な仕事をした人物。
派手さはないですが、こういう「縁の下の力持ち」が呉の長命を支えていたんです。
孫賁 伯陽(そんほんはくよう)
孫堅の兄・孫羌の子で、孫堅の甥にあたります。
孫堅の死後、その軍を一時まとめ、後に孫策の江東平定を豫章太守として支えました。
孫家の「創業期」を支えた、血縁重用の典型的な人物です。
孫匡 季佐(そんきょうきさ)
孫策・孫権の弟で、曹操の弟の娘を娶った人物です。
曹操と孫権が一時的に和睦していた時期の「政略結婚」の産物でもあり、
三国間の複雑な関係を象徴しています。
記録は少ないですが、呉と魏の外交史を語る上で無視できない存在です。
孫韶 公禮(そんしょうこうれい)
孫権の従甥で、長年にわたり広陵・江都の辺境を守り続けた将です。
魏の将帥の名前や性格を熟知していたと正史に記されており、情報戦にも長けた人物でした。
地味ながら、呉の北方防衛を数十年支えたその働きは、もっと評価されていいと思います。
孫登 子高(そんとうしこう)
孫権の長子で、皇太子として期待を一身に受けた人物です。
諸葛恪・張休・顧譚・陳表の「四友」を集め、学問と人望を兼ね備えた理想の後継者でした。
しかし33歳で早世し、その死が後の後継者争い「二宮の変」の遠因となります。
「もし孫登が生きていたら」——呉の歴史で最大のIFかもしれません。
孫慮 子智(そんりょしち)
孫権の次子で、建昌侯に封じられました。
兄・孫登より先に亡くなっており、その短い生涯の記録はあまり残っていません。
孫登が早世していなければ、歴史に登場することもなかったかもしれない人物です。
孫和 子孝(そんかしこう)
孫登の死後、皇太子に立てられた孫権の子です。
しかし弟・孫霸との後継争い「二宮の変」に巻き込まれ、太子を廃されました。
晩年の孫権が引き起こした権力の混乱を、最も直接的に被った悲劇の人物です。
孫霸 子威(そんはしい)
孫和と帝位を争った魯王です。
臣下を二分させるほどの権力争いを演じましたが、最終的に孫権によって賜死させられました。
「二宮の変」の中心人物として、呉の衰退を象徴する存在です。
孫休 子烈(そんきゅうしれつ)
呉の三代皇帝(景帝)です。
権臣・孫綝を誅殺して実権を取り戻し、文教政策を推進しました。
呉において最初の「太学(大学)」設置など、文化面での貢献が光る皇帝です。
孫亮 子明(そんりょうしめい)
孫権の末子で、わずか10歳で即位した二代皇帝です。
権臣・孫綝に廃位され、その後も不遇な生涯を送りました。
聡明さを示すエピソードが演義に残りますが、
権力の波に飲み込まれた悲劇の少年皇帝です。
孫皓 元宗(そんこうげんそう)
呉の末帝で、その暴政は三国志の中でも際立っています。
臣下への残虐な処刑、酒宴の強制、讒言による粛清
孫皓の治世は呉の終わりを一気に加速させました。
280年に晋の杜預・王濬らに攻められ降伏。
呉は滅亡します。
「なぜ呉は滅んだか」
孫皓一人に帰することはできませんが、
この人物なしには語れません。
ファミリー企業の後継者問題が、
最後は国ごと道連れにした
そんな教訓を残した末帝です。

俺が生きていたら……いや、弟を信じていたんだがな
后妃・外戚


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
孫家の女たちは、内側から呉を動かしておったのじゃ。
后妃・外戚の面々は、表舞台には立たずとも孫家の土台を支えた人びとです。
孫権の母・呉夫人をはじめ、
政略結婚で同盟を固めた女性、
宮廷の権力争いに巻き込まれた妃、
そして孫家と血でつながった外戚武将まで、
15人を紹介します。
呉夫人(ごふじん字不明)
呉夫人は孫堅の妻で、孫策・孫権・孫翊・孫匡ら四兄弟の母にあたります。
孫堅が各地を転戦し、そして戦場に散ったあと、幼い子どもたちを抱えながら孫家を守り抜いた人物です。
孫策が江東を切り拓いていく時期も、精神的な支柱として機能していたと伝わります。
孫権が呉王となってからも健在で、周囲から深い敬意を寄せられていました。
史書には多くを語られませんが、「孫家三代の母」として呉の土台を語るうえで欠かせない存在です。
謝夫人(しゃふじん字不明)
謝夫人は孫権の最初の夫人です。
孫権が若いころに迎えられましたが、早くに没したとされ、
史書の記録はほとんど残っていません。
正式な追尊を受けることなく歴史の陰に埋もれた人物ですが、
後宮の変遷を語るうえでは最初の一人として名前が挙がります。
徐夫人(じょふじん字不明)
徐夫人は孫権の夫人の一人で、江東の名族・徐氏の出身です。
気性が強く、孫権との関係は穏やかではなかったと伝わります。
孫権が歩夫人を寵愛するようになると次第に遠ざけられ、
後宮での立場を失っていきました。
才媛として知られた一方で、
権力の波に飲み込まれた人物でもあります。
歩夫人(ほふじん字不明)
歩夫人は、孫権がもっとも長く寵愛した夫人です。
孫魯班・孫魯育の二人の娘をもうけ、
生前は事実上の后妃として遇されていました。
とはいえ、孫権が皇帝を称したあとも皇后には立てられませんでした。
没後に「皇后」と追尊されており、孫権の深い思いが伝わってきます。
孫家の後継者問題が激化した「二宮の変」では、その娘たちが深く関わることになります。
王夫人(琅邪・おうふじん字不明)
琅邪の王夫人は孫権の夫人で、太子・孫和の母にあたります。
政局が荒れるなか、全公主(孫魯班)から「王夫人は孫権の病を喜んでいる」と讒言されてしまいます。
孫権から激しく責められた王夫人は、憂憤のうちに没しました。
その後まもなく、息子・孫和も廃太子にされるという悲運をたどります。
『三国志』呉書には、「夫人以憂死」——夫人は憂いのうちに亡くなった、とだけ記されています。
王夫人(南陽・おうふじん字不明)
南陽の王夫人は孫権の夫人で、後の第四代皇帝・孫休の母にあたります。
同じ「王夫人」が複数いるため、出身地で区別して「南陽王夫人」と呼ばれます。
孫休が即位すると「敬皇后」として追尊されました。
史書の記録は少ないながらも、呉の皇統を継いだ息子を産んだ存在として記憶されています。
潘夫人(はんふじん字不明)
潘夫人は孫権晩年の寵妃で、孫亮の母にあたります。
孫権から絶大な愛顧を受け、赤烏14年(251年)に生前から正式に皇后へと立てられました。
孫権が生前に皇后として立てた、唯一の女性です。
ところが、孫権の死の直前に宮女たちに殺害されたと伝わります。
最高位に立ちながら、最期はあまりに悲劇的でした。
全夫人(ぜんふじん字不明)
全夫人は孫亮の皇后で、外戚・全氏の出身です。
全氏は「二宮の変」以降に急速に権勢を拡大した一族で、全夫人の冊立もその政治的台頭と無縁ではありませんでした。
しかし孫亮が権臣・孫綝によって廃位されると、全夫人もその運命に付き合わされることになります。
孫尚香(そんしょうこう字不明)
孫権の妹で、赤壁後の和平工作として劉備に嫁いだ人物です。
正史では「孫夫人」、演義では「孫仁」と記されています。「孫尚香」という名前は後世の戯曲などで定着した呼称ですが、三国志ファンにはもっともなじみ深い名前です。
演義では武芸に秀で、侍女たちを常に武装させていたと描かれています。
劉備が肝を冷やしたという逸話が有名で、演義第54回には「夫人生得雄壮——夫人はいかにも勇ましい生まれつきで」と記されています。
劉備が益州攻略に向かうと孫権に呼び戻され、その後の消息は諸説あります。
大喬(だいきょう字不明)
大喬は江東の美女として名高く、孫策の夫人にあたります。
「江東の二喬」と並び称される姉妹のうちの姉で、演義では曹操が赤壁へ向かう動機のひとつとして語られるほどの美貌とされました。
孫策が26歳で没すると、若くして寡婦となります。
史書はその後の生涯をほとんど伝えていません。
小喬(しょうきょう字不明)
小喬は大喬の妹で、都督・周瑜の夫人にあたります。
宋の詩人・蘇軾が赤壁の戦いを詠んだ「赤壁賦」に、「小喬初嫁了——小喬がまさに嫁いだばかりで」と記したことで後世に名を残しました。
実際には嫁いでから十年近くが経っていましたが、詩の力は歴史の細部より強いものです。
小喬の名は、詩とともに永遠になりました。
呉景(ごけい字不明)
呉景は呉夫人の弟、つまり孫策・孫権の叔父にあたります。
孫堅・孫策の時代から外戚武将として働き、丹陽太守として江東経営に貢献しました。
孫家が江東に基盤を築く初期の段階で、血縁の信頼を背景に重要な役割を担った人物です。
孫河 伯海(そんかはくかい)
孫河は孫堅の族子(一族の子)で、孫策・孫権に仕えた外戚武将です。
内外の信任を得ていましたが、ある事件に巻き込まれて命を落とします。
孫権の弟・孫翊が部下(媯覧・戴員)に暗殺された際、その犯人たちを激しく責め立てました。
ところが逆上した彼らに殺害されてしまいます。
忠実な働きを示しながら非業の死を遂げた、孫家草創期の悲劇の人物です。
孫靜 幼臺(そんせいようだい)
孫靜は孫堅の弟で、孫策・孫権の叔父にあたります。
孫堅が各地を転戦するなか、本拠地の守りを固め一族の基盤を支えました。
派手な活躍こそありませんが、孫家が乱世を生き抜くための「内側の柱」として機能した人物です。
後に孫瑜や孫皎といった優秀な武将や、呉の後期に権力を握る孫峻・孫綝らを輩出する系統を残しました。
周善(しゅうぜん字不明)
周善は『三国志演義』にのみ登場する架空の人物です。
孫夫人を劉備のもとから呼び戻す使者として遣わされ、劉備が益州攻略に乗り出したすきをついて連れ帰ろうとします。
しかし追いついてきた張飛に斬り殺されるという、どこか割を食った役回りで描かれています。
后妃・外戚の15人は、武功ではなく「孫家との血と縁」によって歴史に名を刻んだ人びとです。
次は呉の軍事を動かした最高指揮官たち、都督・重臣の8人を見ていきましょう。

ワシの後宮、登場人物多すぎて自分でも把握しきれん……。
都督・重臣


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
呉の軍事は、四人の都督がリレーで守り抜いたのじゃ。
呉には「都督」と呼ばれる最高軍事指揮官のポストがありました。
周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜と続く四人の継投は、まさに呉の軍事史そのものです。
そのあとを継いだ諸葛恪・孫峻・孫綝・陸抗も含め、8人を紹介します。
周瑜 公瑾(しゅうゆこうきん)
周瑜は呉の初代都督で、赤壁の戦いを勝利に導いた人物です。
孫策とは幼なじみで、ともに江東を切り拓いた盟友でもありました。
208年の赤壁では、大軍を率いる曹操に対して火攻めを決断。
演義には「既生瑜、何生亮——瑜を生んだなら、なぜ亮まで生んだのか」という有名な嘆きが残りますが、正史の周瑜は器が大きく、諸葛亮への嫉妬とは無縁だったとされています。
36歳で没した若き天才は、呉の歴史でもっとも輝く星のひとつです。
魯粛 子敬(ろしゅくしけい)
魯粛は周瑜の後を継いだ第二の都督で、呉の外交戦略を担った人物です。
孫権に「天下三分」の構想を最初に示したのは、諸葛亮より先に魯粛だったともいわれています。
劉備との同盟を維持し続けた外交の要であり、「荊州を貸す」という大局的な判断も魯粛の発案でした。
演義では少しお人好しに描かれがちですが、正史の魯粛は冷静な戦略家です。
46歳で没し、その死後から呉蜀関係は少しずつ冷えていきました。
呂蒙 子明(りょもうしめい)
呂蒙は第三の都督で、武将から学者へと変貌を遂げた人物として有名です。
「呉下の阿蒙——昔の呂蒙とは違う」という魯粛の驚きの言葉が、今も故事として残っています。
219年、関羽が魏と対峙するすきをついて荊州を奇襲。
曹操も手を焼いた「武神」関羽を追い詰め、ついに捕縛・処刑へと追い込みました。
その直後に急死しており、正史では病死、演義では関羽の霊に取り殺されるという最期が描かれています。42歳という若さでした。
陸遜 伯言(りくそんはくげん)
陸遜は第四の都督で、222年の夷陵の戦いで劉備率いる大軍を火計で撃破した人物です。
地味な文官に見せかけて油断させ、満を持して火を放つ。
演義には「火烧連営七百里——火は七百里にわたって連営を焼き尽くした」と記されており、その規模の大きさが伝わります。
軍事だけでなく内政にも才を発揮しましたが、晩年は「二宮の変」に巻き込まれ、孫権から責め続けられて憤死しました。
呉が生んだ最高の文武両道の士です。
諸葛恪 元遜(しょかつかくげんそん)
諸葛恪は諸葛瑾の息子で、孫権死後に幼帝・孫亮を補佐した権臣です。
父の名を受け継ぎながら、諸葛亮の甥にもあたるという三国志屈指の「家柄の人」でもあります。
252年の東興の戦いで魏軍を撃退し、絶頂期を迎えます。
しかし翌253年の合肥攻略が大失敗に終わり、民心を失います。
同年、政敵・孫峻のクーデターで一族もろとも殺害されました。
孫峻 子遠(そんしゅんしえん)
孫峻は孫静の曾孫にあたり、諸葛恪を暗殺して実権を握った人物です。
孫権の血筋を引く宗室でありながら、その治世は恐怖政治と評されました。
大帝・孫権が丹精込めて育てた呉の体制が、ここから急速に崩れ始めます。
258年に病死。在位わずか5年でしたが、その爪痕は深いものでした。
孫綝 子通(そんりんしつう)
孫綝は孫峻の従弟で、孫峻の死後に権力を引き継いだ人物です。
皇帝・孫亮が親政を試みると、これを廃位して孫休を擁立するという強引な手に出ます。
ところが孫休は即位直後にクーデターを決行。
孫綝は捕らえられ、一族ともに処刑されました。
権力の階段を駆け上がり、そして真っ逆さまに落ちた人物です。
陸抗 幼節(りくこうようせつ)
陸抗は陸遜の息子で、末期の呉を軍事面でひとり支え続けた人物です。
父と同じく江陵(荊州)の守りを担い、晋の名将・羊祜と長年にわたって対峙しました。
互いに相手を深く尊重し合っていたとされ、「陸抗・羊祜の友情」は後世に語り継がれています。
陸抗が没すると、呉を守る柱はもはや残っていませんでした。
280年、晋に滅ぼされるまでの呉の命運は、この一人の将軍に懸かっていたといっても過言ではありません。
都督・重臣の8人は、呉の「軍事の顔」として時代ごとに国を支えた人たちです。次は内政と外交を担った幕僚・文臣の31人を見ていきましょう。

四人の継投で赤壁から夷陵まで……我ながら、いい布陣だったと思うが。
幕僚・文臣


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
呉の内政は、地味だが優秀な文臣たちが支えておったのじゃ。
戦場で目立つのは武将たちですが、国を動かすのは文臣の仕事です。
呉の幕僚・文臣には、孫権を諫め続けた忠臣、学問で名をあげた知識人、そして権力の波に飲み込まれた悲劇の人物まで、個性豊かな31人が揃っています。
張昭 子布(ちょうしょうしほ)
張昭は呉を代表する文臣で、孫策・孫権の二代にわたって仕えた重鎮です。
孫策は臨終の際に「内のことは張昭に任せよ」と言い残したとされ、その信頼の厚さが伝わります。
ところが赤壁の戦い前夜、張昭は曹操への降伏を主張しました。
孫権が周瑜・魯粛の意見を採って抗戦を選んだことで、張昭の政治的な立場は微妙なものになっていきます。
それでも孫権は張昭を「仲父(父のような存在)」と呼び続けました。遠ざけながらも、尊重することをやめなかったのです。
張紘 子綱(ちょうこうしこう)
張紘は張昭と並び称された文臣で、「江東の二張」と呼ばれた人物のひとりです。
孫策の参謀として各地を転戦し、外交文書の作成でも才を発揮しました。
孫策の死後は許都に留まって曹操の元にいましたが、のちに孫権に呼び戻されています。
張昭が「内政の要」なら、張紘は「外交の筆」。二人で呉の文官体制を支えた時代がありました。
顧雍 元歎(こようげんたん)
顧雍は呉の宰相(丞相)を長年務めた、内政の最高責任者です。
孫権が皇帝を称した222年から、顧雍が没する243年まで実に19年間、丞相の座にありました。
口数が少なく、宴会でも酒を飲まないことで知られていました。孫権は「顧雍が笑えば成功、顔を曇らせれば失敗」と側近に語っていたといいます。
派手さはありませんが、呉の安定期を支えた文臣の筆頭です。
諸葛瑾 子瑜(しょかつきんしゆ)
諸葛瑾は諸葛亮の兄で、呉に仕えた外交の名手です。
弟が蜀に仕えているという特殊な立場でありながら、孫権から絶大な信頼を得ていました。
孫権は「諸葛瑾は呉を裏切らない」と確信しており、その人柄への信頼は生涯揺らぎませんでした。
顔が細長く、馬の顔に似ていたという逸話が残っており、演義にはそのユーモラスなエピソードも描かれています。
歩騭 子山(ほしつしさん)
歩騭は諸葛瑾・顧雍の後を継いで丞相となった人物です。
交州(現在のベトナム北部)の統治に功績を上げ、南方経営の要として活躍しました。
温厚な人柄で知られ、多くの人材を推薦したことでも評価されています。
地味ながら呉の安定を支えた、縁の下の力持ちです。
孫邵 長緒(そんしょうちょうしょ)
孫邵は呉が建国された際の初代丞相です。
孫権が皇帝を称する前の時代から仕え、
国の礎を整えた人物ですが、史書の記録は少なく、
その詳細は多くが謎のままです。
呉の「初代丞相」という肩書きが、彼の最大の記録といえます。
嚴畯 曼才(げんしゅんばんさい)
嚴畯は学問に秀でた文臣で、詩文の才でも知られていました。
魯粛の後任として都督に推薦されましたが、
「自分には荷が重すぎる」と固辞した逸話が残っています。
実力を冷静に見極めた、正直者の文人です。
裴玄 彥黃(はいげんげんこう)
裴玄は呉の官僚で、礼制の整備に関わった文臣です。
史書での記録は限られますが、
呉の制度的な基盤を整えた人物のひとりとして名を残しています。
程秉 德樞(ていへいとくすう)
程秉は儒学者として交州から呉に移り、
孫権に重用された学者肌の文臣です。
太子・孫登の教育係を務めたことでも知られており、
呉の次世代を育てた人物のひとりです。
闞澤 德潤(かんたくとくじゅん)
闞澤は貧しい家の出身ながら学問で身を立てた人物で、
孫権の侍講(読書の師)を務めました。
演義では赤壁の戦いで「偽りの降伏文書」を曹操の元へ届ける大役を担い、一躍有名になりました。
正史での活躍は地味ですが、孫権の知的な側面を支えた存在です。
薛綜 敬文(せっそうけいぶん)
薛綜は南方・交州の統治に携わった文臣で、儒学の普及にも努めました。
孫権への上奏文に歯に衣着せぬ意見を記したことで知られており、
諫言を恐れない文人として評価されています。
是儀 子羽(ぜぎしう)
是儀はもともと「氏儀」という名でしたが、
孫権から「氏は是(これ)に非ず」と指摘されて「是儀」に改名したという逸話が残っています。
誠実で口が堅く、孫権から長年信頼された側近です。
胡綜 偉則(こそういそく)
胡綜は文書・外交文書の作成に長けた文臣で、呉の「筆の使い手」として知られていました。
孫権が発する詔書や外交文書の多くを胡綜が起草したとされ、言葉の力で呉を支えた人物です。
徐詳 子明(じょしょうしめい)
徐詳は呉と魏の間の外交交渉で活躍した使者です。
何度も魏に赴いて交渉を担い、
両国の緊張を和らげる役割を果たしました。
地味な仕事ですが、戦争を防ぐうえで欠かせない存在でした。
張温 惠恕(ちょうおんけいじょ)
張温は呉の中でも屈指の才人で、蜀への使者として諸葛亮とも交流した人物です。
蜀での評判は高く、諸葛亮からも一目置かれていました。
しかし帰国後、蜀を過度に褒めたことが孫権の不興を買います。
讒言も加わって罷免され、故郷に幽閉されたのちに病死しました。才能が仇になった悲劇の文臣です。
顧譚 子默(こたんしもく)
顧譚は顧雍の孫で、太子・孫和を支持したことから「二宮の変」に巻き込まれました。
孫和が廃太子になると交州へ流罪となり、そのまま現地で没しています。
名家の出身でありながら、政争の波に飲み込まれた人物です。
張休 叔嗣(ちょうきゅうしゅくし)
張休は張昭の息子で、顧譚とともに太子・孫和を支持しました。
「二宮の変」で孫覇派に讒言され、自害に追い込まれています。
父・張昭の遺した名声が、息子には重すぎる荷となりました。
陳表 文奧(ちんひょうぶんおう)
陳表は武将・陳武の息子で、文武両道の人物として知られています。
父の遺した部曲(私兵)を率いながら、文臣としても活躍しました。
早くに没したため記録は少ないですが、その誠実な人柄は史書に記されています。
謝景 叔發(しゃけいしゅくはつ)
謝景は学者出身の官僚で、地方行政に携わった文臣です。
史書の記録は断片的ですが、
呉の地方統治を支えた人物のひとりとして名前が残っています。
范慎 孝敬(はんしんこうけい)
范慎は剛直な気性で知られた文臣です。
権力者にも臆せず意見を述べたことで知られており、
その一本気な性格が評価される一方で、
衝突も多かったと伝わります。
刁玄(字不明)
刁玄は孫皓の時代に活躍した使者・文臣です。
蜀への使者を務めたり、
西晋からの書物を持ち帰るなどしましたが、
史書の記録は少なく、
詳細は不明な部分が多い人物です。
羊衜(字不明)
羊衜は呉に仕えた官僚で、孫皓の時代に活躍しました。
なお、晋の名将・羊祜の父も同じ「羊衜」という名前ですが、
全くの別人です。
同姓同名が三国時代には珍しくなかったことを示す、興味深い例のひとつです。
潘濬 承明(はんしゅんしょうめい)
潘濬はもともと蜀(荊州)に仕えていましたが、
呂蒙の荊州奪取後に呉へ移った人物です。
当初は関羽の配下でしたが、
関係は良好ではなかったとされています。
呉に移ってからは南方の反乱鎮圧で功績を上げ、孫権から重用されました。
二君に仕えた経歴を持ちながら、呉で着実に地位を築いた現実主義者です。
陸凱 敬風(りくがいけいふう)
陸凱は陸遜の甥にあたり、末期の呉で孫皓の暴政を正面から諫め続けた人物です。
孫皓への上奏文には「国が滅びる道を歩んでいる」と直言しており、その勇気は史書に記されています。
陸凱が没すると、孫皓を諫める者はほとんどいなくなりました。
滕胤 承嗣(とういんしょうし)
滕胤は孫峻・孫綝の時代に要職を務めた文臣です。
孫綝のクーデターに巻き込まれ、
抵抗したために殺害されました。
権臣が跋扈する時代に、正面からぶつかって命を落とした人物です。
濮陽興 子元(ぼくようこうしげん)
濮陽興は孫休を擁立する際に孫綝に協力した文臣です。
孫休の即位後は丞相にまで上りつめましたが、
孫皓が即位すると讒言によって処刑されました。
時代の波に乗り、そして飲み込まれた人物です。
王蕃 文淵(おうはんぶんえん)
王蕃は天文・数学に通じた学者肌の文臣です。
孫皓の宴席で酒に酔ったふりをして失礼な態度をとったとして、孫皓の怒りを買い斬殺されました。
暴君のもとで理不尽な最期を遂げた人物として知られています。
樓玄 承先(ろうげんしょうせん)
樓玄は孫皓の時代に活躍した官僚ですが、
孫皓の不興を買って流罪となり、
さらに自害を命じられました。
孫皓の暴政を語るうえでよく名前が挙がる悲劇の文臣のひとりです。
賀邵 興伯(かしょうこうはく)
賀邵は孫皓への諫言で知られた文臣です。
孫皓の失政を厳しく批判する上奏を行いましたが、
逆に激怒を買って投獄されました。
病を得て没しており、
晩年は苦難の連続でした。
韋曜 弘嗣(いようこうし)
韋曜は呉の正史『呉書』を編纂した歴史家です。
孫皓の宴席では、酒に弱い韋曜のために孫皓が特別に茶を酒の代わりに賜っていたという微笑ましいエピソードも残っています。
しかし孫皓の父・孫和を「帝」として本紀に記すよう命じられた際、
「実際に即位していない」と史官としての矜持から拒否したため、
孫皓の激怒を買い処刑されました。
呉の歴史を書き残そうとした歴史家が、その歴史の中で消えていった皮肉な最期です。
華覈 永先(かかくえいせん)
華覈は文章の才に秀でた文臣で、
呉末期に孫皓へ何度も諫言を試みました。
晩年は病と失意のうちに引退しており、
滅亡直前の呉の空気をもっともよく知る人物のひとりです。
呂壱(字不明)
呂壱は孫権晩年に権勢を振るった側近で、他の官僚たちの監察を担いました。
張昭・顧雍ら重臣をも讒言で陥れ、呉の朝廷に恐怖の空気を広げた人物です。
しかし証拠が積み重なるにつれて孫権の信頼を失い、最終的に処刑されました。
権力の番犬が、権力に食われた末路です。
幕僚・文臣の32人は、戦場ではなく言葉と知恵で呉を支えた人たちです。
次は槍と気概で前線を走り抜けた猛将・武将の28人を見ていきましょう。

孫権殿、降伏も選択肢のひとつでございます……と言い続けて何十年経ったことか。
猛将・武将


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
呉の武将は、個性の塊が揃っておるのじゃ。
呉といえば「水軍と知略の国」というイメージがありますが、前線を張った猛将たちも相当な個性の持ち主ぞろいです。
叩き上げの苦労人、喧嘩っ早い荒くれ者、義理と意地で戦い続けた将軍まで、28人を紹介します。
太史慈 子義(たいしじしぎ)
太史慈は弓の名手として知られる武将で、もとは劉繇の配下でした。
孫策と一騎討ちを演じた逸話が有名で、互いに武器を奪い合う激闘の末に引き分けたと伝わります。
その後、孫策に見込まれて呉に仕えることになりました。
臨終の際には「丈夫生世、当带七尺之剣——男として生まれたからには七尺の剣を帯びるべきだ」と嘆いたとされ、志半ばで逝った無念が伝わります。41歳でした。
程普 德謀(ていふとくぼう)
程普は孫堅・孫策・孫権の三代に仕えた、呉最古参の武将です。
赤壁の戦いでは周瑜と並ぶ左都督として戦い、当初は年下の周瑜を軽んじていました。
ところが周瑜の器量に触れるうちに態度が変わります。「周瑜と交わると、まるで美酒を飲むように、知らず知らず酔いしれてしまう」と周囲に語るようになったといいます。
素直に人を認められる将軍は、長く生き残るものです。
黄蓋 公覆(こうがいこうふく)
黄蓋は赤壁の戦いで火攻めを成功させた立役者です。
曹操への偽りの降伏を装って火船を突入させ、大軍を炎の海に沈めました。
演義では、その降伏を信じさせるため、あえて周瑜に自分をムチ打たせる「苦肉の策」の芝居を打ったことでも有名です。
孫堅の時代から仕えた古参中の古参で、三代にわたって呉を支えました。
韓當 義公(かんとうぎこう)
韓當は程普・黄蓋と並ぶ呉の古参武将で、弓と騎馬を得意とした武人です。
孫堅の時代から従軍し、数え切れないほどの戦場を経験しました。
地味ながら安定した働きで呉を支え続け、赤壁・夷陵など主要な戦いにもすべて参加しています。
派手さはないけれど、どの戦場にも必ずいる。そんな「縁の下の猛将」です。
陳武 子烈(ちんぶしれつ)
陳武は孫策の時代から仕えた武将で、逍遥津の戦いで命を落とした人物です。
215年、張遼率いる魏軍の奇襲を受けた際、孫権を逃がすために殿を務めて戦死しました。
孫権はその死を深く悼み、陳武の愛妾を殉死させたと伝わります。当時の慣習とはいえ、複雑な気持ちになる逸話です。
董襲 元代(とうしゅうげんだい)
董襲は水軍で活躍した武将で、孫権の窮地を幾度も救った人物です。
濡須の戦いで暴風雨の中、
船を放棄して逃げるよう部下に言われても
「将として船を見捨てられるか」と拒否し、
船とともに水没して亡くなりました。
その最期は武人の意地そのものでした。
甘寧 興霸(かんねいこうは)
甘寧はもともと錦帆賊(川の盗賊)として暴れていた人物で、呉に加わってからは最強クラスの猛将に変貌しました。
百人の決死隊で魏の大軍営を夜襲し、一人も欠けずに帰還したという逸話は有名です。
孫権は「魏に張遼あらば、呉に甘寧あり」と称えたといいます。
粗暴で気性が荒く、部下を殺したこともありましたが、その一方で配下への面倒見は抜群でした。愛すべき荒くれ者です。
凌統 公績(りょうとうこうせき)
凌統は父・凌操を甘寧に殺された武将です。
当然、甘寧への恨みは骨髄に達していましたが、
孫権の取りなしで共に戦い続けました。
逍遥津の戦いでは孫権を脱出させるために奮戦し、
自身も重傷を負います。
共に戦った自身の部下たちが全員戦死してしまったことに号泣しましたが、孫権から「お前が無事なら、人はまた集まる」と慰められたと伝わります。
恨みを飲み込んで主君に尽くした、義の将軍です。
蔣欽 公奕(しょうきんこうえき)
蔣欽は水軍の将として活躍した武将で、
甘寧・凌統らと並ぶ呉の猛将のひとりです。
孫権に何度も直言し、人物の評価を正直に述べたことで信頼されていました。
母親を大切にした孝行者としても知られており、
武骨な猛将とは少し違う穏やかな側面を持った人物です。
周泰 幼平(しゅうたいようへい)
周泰は孫権の身辺警護で名を上げた武将です。
孫権が賊に囲まれた際、傷だらけになりながらも守り抜いたことで厚い信頼を得ました。
その体には無数の傷跡があり、孫権が宴席で「この傷はどこでついたものか」と一つひとつ尋ねたというエピソードが残っています。
傷の数だけ、主君への忠義がある。そんな人物です。
徐盛 文嚮(じょせいぶんこう)
徐盛は魏の大軍に対して「偽城壁作戦」を展開した武将です。
曹丕が大軍を率いて南下した際、
徐盛は長江沿いに偽の城壁と旗を並べて大軍に見せかけ、
曹丕を退却させました。
実際には空っぽの張りぼてでしたが、その胆力と発想で呉を救った人物です。
潘璋 文珪(はんしょうぶんけい)
潘璋は関羽を追い詰め、
その捕縛に関わった武将として知られています。
219年、荊州から逃れようとした関羽を包囲し、
最終的に捕らえることに貢献しました。
ところが演義では、
関羽の息子・関興に追い詰められた際に関羽の霊に遭遇し、
恐怖で動けなくなったところを討ち取られるという最期が描かれています。
歴史の因果が、フィクションの中で回収された形です。
丁奉 承淵(ていほうしょうえん)
丁奉は呉の武将の中でもっとも長生きした人物のひとりで、国の最後まで生き抜きました。
252年の東興の戦いでは、雪の中で甲冑を脱ぎ捨てて白兵戦を挑み、魏軍を打ち破るという豪快な戦いを見せました。
晩年は権臣として呉の政治にも関与しており、武将から権力者への転身を果たした稀有な人物です。
朱治 君理(しゅちくんり)
朱治は孫堅・孫策の時代から仕えた古参武将で、
孫権の後見役的な存在でもありました。
孫権が若くして家督を継いだ際、
周囲の安定に貢献した人物です。
地味な印象ですが、呉の草創期を支えた縁の下の力持ちです。
朱然 義封(しゅぜんぎほう)
朱然は孫権の幼なじみで、江陵の守りを任された武将です。
夷陵の戦いで活躍したのち、魏の大軍による江陵包囲を六か月にわたって守り抜きました。
魏の将・曹仁を相手に一歩も引かなかったこの籠城戦は、呉の防衛史に刻まれています。
幼なじみへの信頼を一生かけて返し続けた将軍です。
呂範 子衡(りょはんしこう)
呂範は孫策の時代から仕えた文武兼備の人物で、
内政・軍事の両面で活躍しました。
孫権が呉王になると大司馬にまで上りつめています。
水軍を率いて魏と戦うなど晩年まで現役でしたが、
遠征中に病に倒れて没しました。
朱桓 休穆(しゅかんきゅうぼく)
朱桓は221年の濡須の戦いで魏の名将・曹仁を撃破した武将です。
兵力で大きく劣りながらも奇策で勝利し、曹仁の息子・曹泰を追い払いました。
気性が激しく自信家でしたが、その自信を裏付ける実力の持ち主でもありました。
全琮 子璜(ぜんそうしこう)
全琮は孫権の娘婿となった武将で、
文武両道の人物として知られています。
夷陵の戦い・合肥の戦いなど各地で活躍し、
呉の外征を支えました。
「二宮の変」では孫覇派に与したため、
のちに全氏一族が急激に台頭するきっかけとなります。
呂岱 定公(りょたいていこう)
呂岱は南方・交州の統治で大きな功績を上げた武将です。
長命で知られ、90歳を超えてもなお現役でいたと伝わります。
呉の南方開拓を語るうえで欠かせない人物で、
遠方の統治という地味な仕事を黙々とこなし続けました。
賀齊 公苗(がさいこうびょう)
賀齊は山岳地帯での戦いを得意とした武将で、
江南の山越討伐で名を上げました。
鎧や旗を美しく整えることに強いこだわりがあり、
軍容の整った軍隊を率いることで知られていました。
強さと美意識を両立させた、少し変わった猛将です。
周魴 子魚(しゅうほうしぎょ)
周魴は228年の石亭の戦いで、魏の曹休を罠にはめた武将です。
「呉に嫌気がさして投降したい」という偽りの書簡を曹休に送り続け、大軍を深く引き込んでから包囲殲滅しました。
信頼を利用した謀略でしたが、周魴はその役を全うするために自ら頭を剃り落として決意を示したといいます。
体を張った演技派の武将です。
呂據 世議(りょきょせいぎ)
呂據は呂範の息子で、父の跡を継いで呉に仕えた武将です。
孫綝のクーデターに抵抗しましたが、
孤立無援となり自害しています。
父が築いた名声を守ろうとした末の、悲劇的な最期でした。
朱異 季文(しゅいきぶん)
朱異は朱桓の息子で、呉末期に活躍した武将です。
諸葛誕の反乱を支援するために魏へ出兵しましたが、
兵糧不足で撤退を余儀なくされました。
その責任を問われて孫綝に処刑されており、
乱世の末期らしい理不尽な最期を遂げた人物です。
施績 公緒(しせきこうしょ)
施績は朱然の息子で、
父と同じく江陵の守りを担った武将です。
父・朱然はもともと養子として朱家に入っていたため、
施績は本来の父方の姓である「施」に戻しています。
陸抗とともに呉の最終防衛線を支えた将軍のひとりで、
末期の呉を懸命に守り続けました。
孫桓 叔武(そんかんしゅくぶ)
孫桓は孫河の子にあたる宗室の武将で、
夷陵の戦いで劉備軍と激戦を繰り広げました。
包囲されながらも守り抜き、
陸遜の反撃に呼応して戦果を上げています。
孫家の血を引く武将として、若くして前線に立ち続けた人物です。
凌操(りょうそう・字不明)
凌操は凌統の父で、孫権の水軍を率いた武将です。
甘寧との戦いで命を落としており、
その死が息子・凌統と甘寧の長年の因縁につながりました。
直接の記録は少ないですが、
息子の物語の「原点」として三国志に名を刻んでいます。
祖茂(そもう・字不明)
祖茂は孫堅の配下で、
孫堅が董卓軍に追われた際、
自らが孫堅の赤い頭巾をかぶって敵を引きつけ、
主君を逃がした武将です。
演義では華雄に追われ、
そのまま討ち死にする悲劇の武将として描かれていますが、
その義侠心あふれる行動は呉の草創期を象徴するエピソードのひとつです。
張悌 巨先(ちょうていきょせん)
張悌は呉の最後の丞相で、280年の晋による呉征伐の際に自ら出陣した人物です。
部下から「勝ち目がない、引き返すべきだ」と進言されましたが、
「国が滅ぶときに逃げるのは恥だ」と言って戦い、戦死しました。
正史には「張悌は呉の滅亡を一身で引き受けた」と記されており、
その覚悟は後世まで称えられています。
滅び行く国に殉じた、最後の武人です。
猛将・武将の28人は、それぞれの戦場と意地で呉を支えた人たちです。
最後は学者・方技・その他の10人を見ていきましょう。

俺を盗賊呼ばわりした奴らも、今となっちゃ呉の英雄と言うんだから、人生わからんもんだな。
学者・方技・その他|知と占術で呉を彩った異才たち


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
知と占いも、国を支える立派な力なのじゃ。
呉を支えたのは、武将や軍師だけではありません。
易学や天文にすぐれた学者から、
占いや計算の達人まで。
最後の10人は、そんな「知と異才」の持ち主を紹介します。
虞翻 仲翔(ぐほんちゅうしょう)
虞翻は『易経』の研究で名を残した、呉随一の学者です。
もとは会稽の役人で、王朗・孫策・孫権と、仕える主君が移り変わりました。
学識は誰もが認めるところでしたが、思ったことを遠慮なく口にする性格で、たびたび孫権の怒りを買いました。
最後は南方の交州へ流され、その地で多くの弟子を育てながら生涯を終えています。
陸績 公紀(りくせきこうき)
陸績は天文や暦に通じた学者で、幼い頃の親孝行な逸話で知られます。
六歳のとき、袁術のもとを訪れ、出されたみかんをこっそり懐に隠しました。
落ちたみかんを問われると「欲歸遺母――家に持ち帰って、母に食べさせたいのです」と答えたと伝わります。
この話は「懐橘」と呼ばれ、後世「二十四孝」のひとつに数えられました。
駱統 公緒(らくとうこうしょ)
駱統は、民の暮らしを第一に考えた心やさしい文臣です。
戦乱で人口が減り続けるなか、
税や労役の負担を軽くするよう孫権に何度も訴えました。
三十代の若さで世を去りましたが、
弱い立場の人へ向けたまなざしの温かさが、
今も記録に残っています。
陸瑁 子璋(りくぼうししょう)
陸瑁は名将・陸遜の弟で、人柄の良さで知られた人物です。
困っている親類や友人を進んで引き取り、
面倒を見たと伝わります。
孫権が遼東への遠征を計画した際には、
その無謀さを説いて思いとどまるよう諫めました。
派手さはありませんが、
徳の人として静かに尊敬を集めました。
朱據 子范(しゅきょしはん)
朱據は文武どちらにもすぐれた人物で、孫権の娘婿でもありました。
ところが、後継者をめぐる「二宮の変」に巻き込まれてしまいます。
皇太子・孫和を支持したことで左遷され、
最後は偽の命令によって命を絶たれました。
才能も人望もありながら、
権力争いに散った惜しい人です。
士燮 威彥(ししょういげん)
士燮は南方の交州を長く治めた、半ば独立した王のような存在です。
中央が乱れるなか、多くの学者が彼を頼って南へ逃れてきました。
その地に学問を根づかせ、孫権に対しては礼を尽くして従いました。
九十歳まで生きた長寿の人で、南方では今も伝説的に語られています。
吳範 文則(ごはんぶんそく)
吳範は天文と占術にすぐれた、予言の名人です。
空の様子から戦の勝敗や災いを読み取り、その予測はたびたび的中したと伝わります。
孫権はその力を重んじ、術の秘訣を知りたがりましたが、吳範は決して教えませんでした。
そのため、かえって孫権の深い恨みを買うことになったと記されています。
劉惇 子仁(りゅうとんしじん)
劉惇は、星の動きから天変地異を読み解いた占星の達人です。
災いの兆しをいち早く言い当て、人々を驚かせました。
表舞台での活躍は多くありませんが、
「不思議な力を持つ人」として呉の記録に名を残しています。
趙達(ちょうたつ・字不明)
趙達は計算術を極め、「神算」と呼ばれた人物です。
数字を使ってさまざまな出来事を言い当てましたが、その秘訣は誰にも明かしませんでした。
亡くなったあと、孫権はその術書を惜しみ、娘を捕らえて問いただし、棺まで開けて探させたと伝わります。
それでも書物は見つからず、趙達の神算は本人とともに失われました。
諸葛融 叔長(しょかつゆうしゅくちょう)
諸葛融は諸葛瑾の子で、名宰相・諸葛恪の弟にあたります。
兄が政変で討たれると、その一族として追及を受け、
自ら毒をあおって命を絶ちました。
蜀の諸葛亮ともつながる名門・諸葛家の、
呉における悲しい結末を背負った人物です。
ここまでで、呉の人物110人をすべて紹介し終えました。最後に、全員をまとめた一覧表で振り返ってみましょう。

占いに学問に神算の達人……強い武将より、こういう面々を眺めている時間のほうが、案外楽しいのだ。
全人物まとめ表(110人)
| 名前 | ひとことメモ |
|---|---|
| 孫堅 | 呉の基礎を築いた「江東の虎」 |
| 孫策 | 江東を平定した「小覇王」 |
| 孫権 | 呉を建国した初代皇帝(大帝) |
| 孫翊 | 孫権の弟・気性激しく暗殺される |
| 孫瑜 | 孫静の子・学問を好んだ宗室の将 |
| 孫皎 | 呂蒙と荊州攻略で活躍した宗室の将 |
| 孫奐 | 兄・孫皎の軍を継ぎ江夏を治めた |
| 孫賁 | 孫堅の甥・豫章太守として孫策を支えた |
| 孫匡 | 孫策・孫権の弟・若くして亡くなる |
| 孫韶 | 辺境を長く守り抜いた宗室の将 |
| 孫登 | 孫権の長子・人望厚き皇太子(早世) |
| 孫慮 | 孫権の次子・才知に富むが早世 |
| 孫和 | 二宮の変で廃された悲運の太子 |
| 孫霸 | 太子と争い自害した孫権の子 |
| 孫休 | 第3代皇帝・学問を好んだ |
| 孫亮 | 幼くして即位した第2代皇帝 |
| 孫皓 | 呉を滅ぼした暴君・最後の皇帝 |
| 名前 | ひとことメモ |
|---|---|
| 呉夫人 | 孫策・孫権ら四兄弟を生んだ国母 |
| 謝夫人 | 孫権の最初の正室 |
| 徐夫人 | 孫権の妃・孫登を養育した |
| 歩夫人 | 孫権が最も寵愛した夫人 |
| 王夫人(琅邪) | 孫和の母・讒言に遭い憂憤のうちに没す |
| 王夫人(南陽) | 孫休の母・のちに敬皇后と追尊 |
| 潘夫人 | 孫亮の母・孫権が生前に立てた皇后 |
| 全夫人 | 孫亮の皇后・全氏一族を背景に持つ |
| 孫尚香 | 劉備に嫁いだ孫権の妹(正史では孫夫人) |
| 大喬 | 孫策の妻・江東の美女 |
| 小喬 | 周瑜の妻・大喬の妹 |
| 呉景 | 呉夫人の弟・孫家草創期を支えた外戚 |
| 孫河 | 孫翊暗殺の犯人を責め逆に殺された一族 |
| 孫靜 | 孫堅の弟・多くの宗室将を生んだ祖 |
| 周善 | 演義のみ登場・孫夫人奪還を企て張飛に斬られる |
| 名前 | ひとことメモ |
|---|---|
| 周瑜 | 赤壁で曹操を破った呉の名都督 |
| 魯粛 | 天下二分の計を説いた大局観の人 |
| 呂蒙 | 関羽を討ち荊州を奪った叩き上げ |
| 陸遜 | 夷陵で劉備を破った呉の柱石 |
| 諸葛恪 | 権勢を誇るも暗殺された宰相 |
| 孫峻 | 諸葛恪を討ち専横をふるった一族 |
| 孫綝 | 孫亮を廃した呉末期の権臣 |
| 陸抗 | 西陵を守り抜いた呉最後の名将 |
| 名前 | ひとことメモ |
|---|---|
| 張昭 | 孫策・孫権二代の重鎮・赤壁では降伏を主張 |
| 張紘 | 「江東の二張」の一人・外交文書の名手 |
| 顧雍 | 19年間丞相を務めた内政の最高責任者 |
| 諸葛瑾 | 諸葛亮の兄・孫権の信頼厚い外交の名手 |
| 歩騭 | 交州統治に功あり丞相に昇った温厚な人 |
| 孫邵 | 呉の初代丞相・記録は少ない |
| 嚴畯 | 学問と詩文に秀でた文臣 |
| 裴玄 | 学識を買われた文官 |
| 程秉 | 経学に通じ孫登の教育係を務めた |
| 闞澤 | 苦学から身を立てた学者肌の文臣 |
| 薛綜 | 文章の才で知られ交州の事情に明るい |
| 是儀 | 清廉で慎み深く孫権に信頼された |
| 胡綜 | 孫権の文書・詔勅を多く起草した |
| 徐詳 | 魏との外交交渉を担った文臣 |
| 張溫 | 才を絶賛されるも罷免・幽閉のうちに病死 |
| 顧譚 | 顧雍の孫・二宮の変に連座し流される |
| 張休 | 張昭の子・二宮の変に巻き込まれ死す |
| 陳表 | 陳武の子・人望を集めた文武の人 |
| 謝景 | 学才を認められた文人官僚 |
| 范慎 | 学識で知られ太子の側近を務めた |
| 刁玄 | 孫皓時代に使者を務めた文臣 |
| 羊衜 | 文臣(羊祜の父とは同姓同名の別人) |
| 潘濬 | もと蜀の臣・荊州統治と反乱鎮圧に功 |
| 陸凱 | 孫皓を諫め続けた剛直の丞相 |
| 滕胤 | 人望厚き重臣・孫綝に討たれる |
| 濮陽興 | 孫皓を擁立するも後に誅された丞相 |
| 王蕃 | 天文・暦に通じた学者・孫皓に殺される |
| 樓玄 | 清廉な官僚・孫皓に追い詰められ自害 |
| 賀邵 | 孫皓を諫めて惨殺された忠臣 |
| 韋曜 | 『呉書』を編んだ歴史家・孫皓に処刑される |
| 華覈 | 文筆の才で知られた史官 |
| 呂壱 | 孫権晩年の腐敗した側近・暗黒期の象徴 |
| 名前 | ひとことメモ |
|---|---|
| 太史慈 | 弓の名手・孫策と一騎討ちを演じた |
| 程普 | 三代に仕えた呉最古参の武将 |
| 黄蓋 | 赤壁で火攻めを演じた古参の将 |
| 韓當 | 孫堅以来の古参・弓と騎馬の名手 |
| 陳武 | 逍遥津で孫権を守り戦死 |
| 董襲 | 水軍の将・船と運命を共にした |
| 甘寧 | もと川賊の荒くれ者・呉最強クラスの猛将 |
| 凌統 | 父の仇・甘寧と並び戦った義の将 |
| 蔣欽 | 直言と孝行で知られた水軍の将 |
| 周泰 | 傷だらけになって孫権を守った忠臣 |
| 徐盛 | 偽の城壁で曹丕を退けた胆力の将 |
| 潘璋 | 関羽の捕縛に関わった武将 |
| 丁奉 | 「雪中奮短兵」で魏軍を破った長寿の名将 |
| 朱治 | 孫家三代に仕えた草創期の重臣 |
| 朱然 | 江陵を魏の猛攻から守り抜いた |
| 呂範 | 厳格な軍紀で孫策・孫権に重用された |
| 朱桓 | 濡須で曹仁を大破した |
| 全琮 | 孫権の娘婿 |
| 呂岱 | 交州を統治し96歳まで生きた宿老 |
| 賀齊 | 山越平定の功将・豪華な軍装を好んだ |
| 周魴 | 断髪して曹休を欺いた智将 |
| 呂據 | 呂範の子・孫綝の専横に抵抗した |
| 朱異 | 朱桓の子・諸葛誕の救援で活躍 |
| 施績 | 朱然の子(本姓は施)・西陵を督した |
| 孫桓 | 夷陵で陸遜と共に戦った孫氏の若将 |
| 凌操 | 凌統の父・甘寧に討たれた因縁の人物 |
| 祖茂 | 孫堅を救った囮の忠義将(演義の名場面) |
| 張悌 | 呉滅亡時に壮烈な最期を遂げた忠臣 |
| 名前 | ひとことメモ |
|---|---|
| 虞翻 | 易学の大家・直言で交州に流された |
| 陸績 | 「懐橘」の二十四孝・天文にも通じた |
| 駱統 | 民を慈しみ賦役の軽減を説いた |
| 陸瑁 | 陸遜の弟・寛容な徳行で知られた |
| 朱據 | 文武兼備の才人・孫権の娘婿 |
| 士燮 | 交州に君臨し孫権に帰順した長寿の長老 |
| 吳範 | 暦数・占術の達人・術を秘して孫権の恨みを買う |
| 劉惇 | 星占いで天変地異を予測した |
| 趙達 | 計算術を極め「神算」と呼ばれた |
| 諸葛融 | 諸葛瑾の子・諸葛恪の弟 |
三国志をもっと楽しむために
ここまで読んでくれて、ありがとうございます。
呉の武将たちを見ていると、「じゃあ魏や蜀には、どんな顔ぶれがいたんだろう」と気になってきませんか。
三国志はおもしろいもので、一人を知ると、その周りの人がもっと知りたくなります。点が線でつながって、線がやがて大きな物語になっていく。そのつながりが見えてきた瞬間が、いちばん楽しいところです。
下に、そんな「次の一歩」になりそうな記事をいくつか並べました。
気になったものから、ゆっくり覗いてみてください。







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