関羽や張飛のように軍を率いた人もいれば、伊籍のように法律づくりに関わった人もいます。蜀を知るときは、戦場での活躍に加えて、政治や地方の統治を担った人たちも気になりますよね。
この一覧では、劉備の勢力と蜀漢に関わった武官・文官を中心に、君主・皇族や家族も区別して紹介します。名前から探したい人は五十音の一覧へ、まず主要人物を知りたい人は次の表からどうぞ。
人物の説明は『三国志』本文と裴松之注、『華陽国志』などを基礎にしています。正史での経歴と、『三国志演義』や後世の伝承は分けて読めるようにしました。 名前だけが伝わる白寿や、演義・伝承の人物には補足欄を設けています。

利を見ては動くべし!お得な情報、見逃すなよ?
※この記事には張飛将軍も納得(?)なPRリンクが含まれています。
蜀の代表的な武将と、国政を担った人物


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
関羽・張飛らの武勇に加え、諸葛亮・蒋琬・費禕らの政治にも目を向けると、蜀の全体が見えてくるぞ。
| 人物 | 主な働き | 一覧へ |
|---|---|---|
| 劉備 | 劉備勢力を率い、221年に蜀漢を建てた君主 | 劉備 |
| 関羽 | 劉備に従い、荊州の軍事を担当 | 関羽 |
| 張飛 | 長坂や巴西で戦った将軍 | 張飛 |
| 趙雲 | 長坂で劉禅らを保護し、北伐にも参加 | 趙雲 |
| 馬超 | 劉備に加わり、驃騎将軍となった武将 | 馬超 |
| 黄忠 | 定軍山で夏侯淵を破った将軍 | 黄忠 |
| 諸葛亮 | 丞相として政治・外交・軍事を担当 | 諸葛亮 |
| 蒋琬・費禕 | 諸葛亮の死後、国政・軍政を継続 | 蒋琬・費禕 |
| 姜維 | 蜀後期の大将軍として北伐を指揮 | 姜維 |
人物同士の関係をたどるなら、三国志の人物相関図|5分でわかる!主要キャラの関係性をスッキリ整理も参考になります。
「五虎大将」と正史の官職はどう違う?
関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の5人は、一般に「五虎大将」として知られます。『演義』第73回では、劉備が漢中王になった際に5人を五虎大将に任じる場面があります。
正史では5人の伝が同じ巻に収められていますが、そのことだけで「五虎大将軍」という正式な制度があったとはいえません。史実の官職を見るときは、各人の伝に記された前将軍・車騎将軍などを確かめます。(出典:『三国志』巻36、『三国志演義』第73回)

輝く? 俺の反抗期が、一番輝いていたと思うがな。


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
出身も経歴もさまざまな人々が、軍事や行政を担っておる。魏や呉へ移った者も含め、実際の経歴を見ていくと面白いぞ。

少年漫画か……よし、俺が魏の大軍をぶっ飛ばすところを、みんなに描いてもらうか!
一覧の読み方と掲載範囲


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
蜀の人物には、軍を率いた将軍も、行政や外交を担った文官もおる。君主や皇族、家族との違いも見ておくと、顔ぶれが整理できるぞ。

汗と涙……? 俺は酒を流しながら働いていたぞ!
蜀漢は劉備が221年に皇帝となって成立した国です。このページでは、それ以前の劉備勢力に仕えた人物も含めています。関羽や法正らを調べる際に、建国の前後で名簿を分けてしまうと経歴が追いにくいためです。(出典:『三国志』巻32)
各項目には「武官」「文官」「皇族」などの区分を付けています。関平や張苞のように、家族関係は分かっても軍職の記録が限られる人も、将軍と同じ扱いにはしていません。
黄権・孟達・麋芳のように、途中で魏や呉へ移った人物もいます。所属は生涯を通じて固定されるものではないため、どの時期に誰へ仕えたかを説明します。
字(あざな)は、姓名とは別に用いられた呼び名です。参照史料で分かるものだけを載せました。詳しい経歴を知りたい場合は、各項目末尾の「出典:書名・巻数」のリンクから、記事末尾の出典一覧へ進めます。出典一覧の書名から原文を確認できます。
五十音から探す:あ行/か行/さ行/た行/な行・は行/ま行・や行/ら行
【あ行】蜀の武将・人物一覧

伊籍(いせき)
字:機伯。区分:文官・外交。
外交と法づくりで劉備を支えた文官です。昭文将軍となり、諸葛亮らと蜀の法である『蜀科』の編纂に参加しました。孫権との機転の利いた問答も、伊籍伝に残っています。 (出典:『三国志』巻38)
殷観(いんかん)
字:孔休。区分:文官。
劉備の荊州主簿、のち別駕従事を務めた文官です。孫権から共同で蜀を攻める案が出た際、呉軍の先駆けとなる危険を説き、出兵を見送るよう劉備に助言しました。 (出典:『三国志』巻32、『三国志』巻45)
尹賞(いんしょう)
区分:文官。
天水で主簿を務め、姜維らとともに魏から蜀へ移った人物です。蜀では執金吾にまで進みました。官職は分かりますが、姜維との私生活や性格を伝える記録は限られています。 (出典:『三国志』巻44)
尹黙(いんもく)
字:思潜。区分:学者・文官。
経書に詳しく、劉禅に『左氏伝』を教えた学者です。若いころは荊州へ赴き、司馬徽や宋忠らに学びました。 (出典:『三国志』巻42)
閻宇(えんう)
字:文平。区分:武官・地方統治。
南中の統治に当たり、右大将軍となった人物です。姜維伝には、黄皓が姜維に代えて閻宇を用いようとしたことも記されます。南中での働きと朝廷内の政治的な関係を分けて見ると、経歴をつかみやすくなります。 (出典:『三国志』巻43、『三国志』巻44)
袁綝(えんりん)
区分:武官。
前将軍・都亭侯として名が残る武官です。李平、つまり改名後の李厳の処分を議した諸葛亮の公文に、官職と姓名が列記されています。詳しい戦歴は分かっていません。 (出典:『三国志』巻40)
王化(おうか)
字:伯遠。区分:文官・学者。
尚書郎や閬中令などを務めた、蜀の文官です。蜀滅亡後は晋でも地方官として働きました。『華陽国志』には、学問や統治に関する記録が残っています。 (出典:『華陽国志』巻11)
王伉(おうこう)
区分:地方官。
永昌の府丞として、呂凱とともに雍闓の勢力へ抵抗しました。2人は吏民と協力して境域を閉じ、永昌を保ちます。王伉はのちに永昌太守となりました。 (出典:『三国志』巻43)
王士(おうし)
字:義強。区分:武官・地方官。
宕渠太守や犍為太守を務めた人物で、王甫の従兄に当たります。225年、諸葛亮の南征に際して益州太守へ移ることになりましたが、南へ向かう途中で殺害されました。 (出典:『三国志』巻45、『華陽国志』巻10)
王崇(おうすう)
字:幼遠。区分:文官・著述家。
王化の弟で、蜀では東観郎を務めました。晋に入ると上庸や蜀郡の太守を歴任しています。歴史書『蜀書』も著しており、陳寿の『三国志』とは別の著作です。 (出典:『華陽国志』巻11)
王平(おうへい)
字:子均。区分:武官。
街亭で馬謖の敗戦に巻き込まれながら、自分の部隊をまとめて退いた将軍です。のちに漢中の防衛を担い、鎮北大将軍となりました。文字の読み書きには限りがありましたが、口述した文書には筋道が通っていたと伝えられます。 (出典:『三国志』巻43)
王甫(おうほ)
字:国山。区分:文官。
綿竹令や荊州議曹従事を務めた文官です。劉備の呉征伐に従い、軍の敗北により命を落としました。関羽に味方の裏切りを警告する場面は、『三国志演義』での描写です。 (出典:『三国志』巻45、『三国志演義』第73回)
王謀(おうぼう)
字:元泰。区分:文官。
劉璋の下で巴郡太守や別駕を務め、のちに劉備へ仕えました。劉備が漢中王となった際には少府として名を連ね、太常も務めています。官歴などの記述は、『季漢輔臣賛』の注に残ります。 (出典:『三国志』巻45、『三国志』巻32)
王連(おうれん)
字:文儀。区分:文官・財政。
司塩校尉として塩鉄の収益を管理し、蜀の財政を支えました。のちに丞相長史となり、諸葛亮が自ら南征することに反対しています。財政だけでなく、政治上の助言にも関わった人物です。 (出典:『三国志』巻41)
【か行】蜀の武将・人物一覧

霍峻(かくしゅん)
字:仲邈。区分:武官。
数百人の兵で葭萌を守り、扶禁・向存らの大軍に約1年抵抗した将軍です。好機を捉えて反撃し、向存を討ち取りました。少数での防衛戦を知るなら、まず押さえておきたい人物ですね。 (出典:『三国志』巻41)
郭攸之(かくゆうし)
字:演長。区分:文官。
侍中を務め、諸葛亮の『出師表』で費禕・董允とともに推挙された文官です。一方、董允伝では穏やかな性格で、宮中の具体的な取り締まりは董允が担ったとされます。3人の役割は同じではありませんでした。 (出典:『三国志』巻35、『三国志』巻39、『三国志』巻40)
霍弋(かくよく)
字:紹先。区分:武官・地方統治。
霍峻の子で、蜀末期に南中を守った人物です。蜀の降伏後も劉禅の処遇を確かめ、礼遇されて東へ移ったとの知らせを受けて魏に帰順しました。その後も南中を任されています。 (出典:『三国志』巻41)
夏侯覇(かこうは)
字:仲権。区分:武官。
もとは魏の将軍で、249年の政変後に蜀へ亡命しました。曹爽の処刑や夏侯玄の召還、郭淮との関係などが、その背景として記されます。劉備の初期からの家臣ではありません。 (出典:『三国志』巻9)
何宗(かそう)
字:彦英。区分:文官・学者。
任安に学び、従事祭酒や大鴻臚を務めた文官です。劉備の皇帝即位を勧めた際には、図讖と呼ばれる予言的な文書を根拠に用いました。現代の気象予報や天文学とは区別して読む必要があります。 (出典:『三国志』巻45)
関彝(かんい)
区分:爵位継承者。
関羽の孫で、関興の庶子です。関統が子を残さず亡くなったため、その爵位を継ぎました。裴松之注所引『蜀記』は関氏の滅亡を記しますが、関彝個人の最期については慎重に扱う必要があります。 (出典:『三国志』巻36)
関羽(かんう)
字:雲長(本字・長生)。区分:武官。
劉備の古くからの将軍で、荊州の軍事を任されました。樊城を攻めた後、呉に捕らえられ、子の関平とともに殺されます。劉備・張飛との親密さは正史にも記されますが、桃園で義兄弟の契りを結ぶ場面は『演義』の物語です。 (出典:『三国志』巻36、『三国志演義』第1回)
詳しく:関羽 雲長(かんう うんちょう)
関興(かんこう)
字:安国。区分:武官・宮廷官。
関羽の子で、字は安国です。諸葛亮に評価され、若くして侍中・中監軍となりました。就官から数年で亡くなったとされますが、関羽伝は具体的な病名や死因を記していません。 (出典:『三国志』巻36)
関統(かんとう)
区分:宮廷武官・爵位継承者。
関興の子で、虎賁中郎将を務めました。関羽伝には公主を妻としたことが記されていますが、どの皇帝の娘かまでは、その一文から特定できません。子を残さず亡くなり、関彝が爵位を継ぎました。 (出典:『三国志』巻36)
関平(かんぺい)
区分:武官の子・随従者。
関羽の子です。正史には、関羽とともに臨沮で殺されたことが記されます。『演義』では関羽の養子という設定ですが、正史本文の記述は「子」であり、両者の設定は異なります。 (出典:『三国志』巻36、『三国志演義』第28回)
簡雍(かんよう)
字:憲和。区分:文官・交渉。
劉備と古くから交友があり、交渉役を担った人物です。益州攻略では劉璋を説得し、降伏へ導きました。自由な振る舞いでも知られますが、実際の交渉の成果も記録に残っています。 (出典:『三国志』巻38)
魏延(ぎえん)
字:文長。区分:武官。
劉備に抜擢されて漢中太守となり、のちに征西大将軍へ進みました。漢中の守備や北伐で働いた一方、諸葛亮の死後には楊儀側と衝突し、命を落とします。軍歴と最期の対立の両方を見ると、人物像を捉えやすくなります。 (出典:『三国志』巻40、『三国志』巻33)
姜維(きょうい)
字:伯約。区分:武官。
天水の官吏から蜀へ移り、のちに大将軍として北伐を率いました。蜀へ加わった背景には、太守に疑われて城へ入れなくなった事情があります。諸葛亮への憧れだけで自ら転職した、という経緯ではありません。 (出典:『三国志』巻44)
許靖(きょせい)
字:文休。区分:文官。
人物評価によって名声を得た文官です。劉璋を経て劉備に仕え、太傅・司徒となりました。法正は許靖の評判を生かして厚遇するよう勧めており、その名声と行政能力への評価は分けて伝えられています。 (出典:『三国志』巻38、『三国志』巻37)
郤正(げきせい)
字:令先。区分:文官・文人。
蜀で秘書令を務めた文人です。蜀滅亡後も劉禅に従って東へ移り、魏での応対を助けました。姓名は「郤正」で、「卻正」「却正」とは字形を区別します。 (出典:『三国志』巻42)
呉懿(ごい)
字:子遠。区分:武官。
呉皇后の兄で、劉焉・劉璋を経て劉備に仕えた将軍です。諸葛亮の死後は漢中を督し、車騎将軍となりました。一般に「呉懿」と書かれますが、『三国志』では「呉壹」の表記が使われます。 (出典:『三国志』巻45)
句安(こうあん)
区分:武官。
蜀の将軍でしたが、249年に李韶とともに魏へ降りました。のちには魏による蜀攻略の軍にも名を連ねています。蜀時代と降魏後の活動を分けて見る必要がある人物です。 (出典:『三国志』巻33、『三国志』巻28)
黄権(こうげん)
字:公衡。区分:武官・文官。
劉璋から劉備に仕え、呉征伐では江北の軍を率いました。劉備の敗戦で蜀へ戻る道を失い、魏へ降ります。劉備はその事情を認め、蜀に残った黄権の家族を処罰しませんでした。 (出典:『三国志』巻43)
黄皓(こうこう)
区分:宦官。
劉禅に仕えた宦官です。董允の存命中は行動を抑えられていましたが、のちに中常侍・奉車都尉となり、政治への影響を強めました。軍を率いた将軍とは役割が異なります。 (出典:『三国志』巻39)
高翔(こうしょう)
区分:武官。
右将軍として、諸葛亮の公文に名が残る武官です。裴松之注に引かれる『漢晋春秋』には、231年に魏延・呉班とともに戦ったことが記されています。 (出典:『三国志』巻40、『三国志』巻35)
黄忠(こうちゅう)
字:漢升。区分:武官。
定軍山の戦いで夏侯淵を破り、後将軍となった武官です。老将や弓の名手としての姿は『演義』でよく知られますが、正史の黄忠伝は生年や弓術の逸話を記していません。史実の主な戦功は、漢中争奪での活躍です。 (出典:『三国志』巻36)
向寵(こうちょう)
区分:武官。
『出師表』で、軍事について相談する相手として諸葛亮に推挙された武官です。中領軍を務め、240年の漢嘉への出征で戦死しました。生年は分かっておらず、若くして亡くなったとは断定できません。 (出典:『三国志』巻41)
句扶(こうふ)
字:孝興。区分:武官。
忠勇で寛厚な人柄と数々の戦功を記される将軍です。左将軍・宕渠侯となり、功名と地位は王平に次いだとされます。字の孝興は、『華陽国志』の記載を手掛かりにできます。 (出典:『三国志』巻43、『華陽国志』巻1)
向朗(こうろう)
字:巨達。区分:文官・学者。
劉表を経て劉備に仕え、丞相長史などを務めました。馬謖の逃亡を知りながら報告しなかったことで罷免された後は、典籍の校勘や議論に力を注ぎます。若い学者との交流でも知られた人物です。 (出典:『三国志』巻41)
胡済(こせい)
字:偉度。区分:武官。
諸葛亮の主簿から、中典軍・中監軍・前将軍などを歴任しました。漢中の軍事も担い、右驃騎将軍に至ります。諸葛亮が、直言する部下として評価した人物の一人です。 (出典:『三国志』巻39)
狐忠(こちゅう)
区分:参軍。
李平の下で参軍を務めた人物です。231年、李平の指示で諸葛亮に撤軍を伝えました。李平の行動を諫めた記録もあり、兵站問題をめぐるやり取りに登場します。 (出典:『三国志』巻40)
呉班(ごはん)
字:元雄。区分:武官。
呉匡の子で、呉懿の一族に当たる将軍です。劉備の呉征伐で兵を率い、蜀では驃騎将軍などを務めました。呉懿との関係を表す「族弟」は、一族の年少者という意味で捉えます。 (出典:『三国志』巻45、『三国志』巻58)
呉蘭(ごらん)
区分:武官。
劉備の将軍として、218年に雷銅らと武都へ派遣されました。曹操軍との戦闘に敗れ、命を落としています。入蜀以前からの詳しい軍歴は、ここで挙げた記録だけでは分かりません。 (出典:『三国志』巻32)
【さ行】蜀の武将・人物一覧

沙摩柯(さまか)
区分:異民族の首長・同盟勢力。
劉備の呉征伐に協力した首長です。陸遜伝には「胡王沙靡柯」と記され、222年の戦いで死亡したとあります。蜀の通常の官僚・将軍とは区分が異なり、容姿や武器の詳しい描写は『演義』の設定です。 (出典:『三国志』巻58、『三国志演義』第83回)
射援(しゃえん)
字:文雄。区分:文官。
劉璋を経て劉備に仕え、議曹従事中郎や軍議中郎将を務めました。諸葛亮の下でも祭酒・従事中郎となっています。字は文雄で、射堅の弟です。 (出典:『三国志』巻32)
射堅(しゃけん)
字:文固。区分:文官。
射援の兄で、漢の黄門侍郎、劉璋の長史を務めました。劉備の下では広漢太守・蜀郡太守を歴任しています。兄弟で名が似ていますが、官歴はそれぞれ分けて見ておきましょう。 (出典:『三国志』巻32)
周群(しゅうぐん)
字:仲直。区分:占候・文官。
天象や占候に通じ、儒林校尉となった人物です。漢中の争奪をめぐり、土地を得ても民は得られず、別動の軍は不利になると予測した記事があります。当時の占候の記録として読む内容です。 (出典:『三国志』巻42)
習珍(しゅうちん)
区分:地方武官。
『襄陽耆旧記』に、零陵北部都尉・裨将軍として記される人物です。関羽の死後に呉へ抵抗し、最後は自死したと伝えられます。劉備がその死を悼んで喪を発したことも、同書に記されています。 (出典:『襄陽記』)
上官雝(じょうかんよう)
区分:武官。
李平の免官に関わる公文に、行中典軍・討虜将軍として名が残ります。『三国志』の表記は「上官雝」です。『演義』第91回の北伐軍編成では「官雝」と記されます。 (出典:『三国志』巻40、『三国志演義』第91回)
蒋顕(しょうけん)
区分:宮廷官。
蒋琬の子で、蒋斌の弟です。太子僕を務め、蜀の降伏後には姜維へ命令を伝える任務に関わりました。264年の混乱で兄とともに命を落とします。 (出典:『三国志』巻44、『三国志』巻33)
譙周(しょうしゅう)
字:允南。区分:学者・文官。
学問と著述で知られ、陳寿が学んだ師の一人です。263年、魏軍が迫った際には劉禅へ降伏を勧めました。蜀末期の判断を考えるうえで、戦う将軍たちと併せて知っておきたい文官です。 (出典:『三国志』巻42、『華陽国志』巻11)
常播(じょうは)
字:文平。区分:文官。
県の主簿や功曹を務めた文官で、字は文平です。県長の朱遊が罪に問われた際、拷問や投獄に耐えながら弁護を続け、冤罪を晴らしました。のちに郪の長となっています。 (出典:『三国志』巻45)
蒋斌(しょうひん)
区分:武官。
蒋琬の子で、綏武将軍・漢城護軍を務めました。魏の鍾会と書簡を交わし、降伏後には交友の礼で遇されます。しかし264年の乱に巻き込まれ、弟の蒋顕とともに殺されました。 (出典:『三国志』巻44)
蒋琬(しょうわん)
字:公琰。区分:文官・軍政。
諸葛亮の死後に蜀の国政を担った中心人物です。尚書令・大将軍・大司馬などを務めました。軍事と行政を継続させた後継者として、費禕とともに押さえておきたい人物です。 (出典:『三国志』巻44)
諸葛喬(しょかつきょう)
字:伯松(旧字・仲慎)。区分:武官・輸送任務。
諸葛瑾の次子で、諸葛亮の養子となった人物です。蜀では駙馬都尉となり、漢中の谷中で輸送を担当しました。25歳で亡くなっています。 (出典:『三国志』巻35)
諸葛尚(しょかつしょう)
区分:将軍の子・従軍者。
諸葛瞻の長子です。263年、綿竹で父とともに命を落としました。父子の最期の言葉を紹介する場合は、裴松之注に引かれる『華陽国志』の記録として、正史本文とは区別して読みます。 (出典:『三国志』巻35)
諸葛瞻(しょかつせん)
字:思遠。区分:文武官。
諸葛亮の子で、衛将軍・平尚書事などを務めました。263年に綿竹で鄧艾軍と戦い、敗れて死亡しています。名声の高かった父との関係と、本人が担った官職・戦いを分けて見ることが大切です。 (出典:『三国志』巻35)
諸葛亮(しょかつりょう)
字:孔明。区分:丞相・軍政。
劉備に仕え、蜀の丞相として政治・外交・軍事を担いました。劉備の死後は劉禅を補佐し、南征と北伐を指揮します。234年、北伐の軍中で亡くなりました。 (出典:『三国志』巻35)
申儀(しんぎ)
区分:地方武官。
上庸地方の有力者である申耽の弟です。劉備側で西城太守となった後、劉封に背いて魏へ移りました。のちには孟達とも対立しており、帰属が変わった地方勢力の一人です。 (出典:『三国志』巻40)
岑述(しんじゅつ)
区分:財政官。
塩の収益を扱う司塩校尉を務めた官人です。張裔との不和が記録され、『華陽国志』には李平の督運に関係する記事もあります。性格や詳しい功績は、限られた記録から膨らませずに読みます。 (出典:『三国志』巻41、『華陽国志』巻7)
申耽(しんたん)
字:義挙。区分:地方武官。
上庸の有力者で、字は義挙です。劉封の軍に降り、劉備側で征北将軍・上庸太守となりました。その後は魏へ降伏しており、蜀への奉仕だけで生涯を説明できる人物ではありません。 (出典:『三国志』巻40)
宗預(そうよ)
字:徳艶。区分:文官・外交・武官。
孫権との応答で評価された、蜀の外交使節です。主簿・参軍・右中郎将などを経て、征西大将軍にもなりました。外交と軍事の双方に官歴があります。 (出典:『三国志』巻45)
【た行】蜀の武将・人物一覧

卓膺(たくよう)
区分:武官。
劉備による益州攻略で、黄忠とともに兵を率いて進軍した将軍です。詳しい初期の経歴や、その後の戦歴を伝える記録は限られています。 (出典:『三国志』巻32)
趙雲(ちょううん)
字:子龍。区分:武官。
公孫瓚を経て劉備に仕えた将軍です。正史の趙雲伝には、長坂で幼い劉禅と甘夫人を保護したことが記されています。北伐にも参加しましたが、超人的な一騎討ちなどの物語上の活躍とは分けて見ましょう。 (出典:『三国志』巻36)
張裔(ちょうえい)
字:君嗣。区分:文官・武官。
劉璋を経て劉備に仕えた人物です。呉に拘束された時期を経て蜀へ戻り、諸葛亮の留府の事務を担いました。参軍や長史として、遠征中の政務を支えた文官です。 (出典:『三国志』巻41)
張嶷(ちょうぎ)
字:伯岐。区分:武官・地方統治。
越巂太守として南中の統治を担った将軍です。254年には病を抱えながら姜維の軍に加わり、徐質の軍と戦って死亡しました。地方統治と従軍の両方に記録が残ります。 (出典:『三国志』巻43)
趙広(ちょうこう)
区分:武官。
趙雲の次子で、牙門将を務めました。姜維に従って沓中にいた際、戦闘で命を落としています。父の名声とは別に、本人も蜀末期の軍務に当たった人物です。 (出典:『三国志』巻36)
張遵(ちょうじゅん)
区分:文官・従軍者。
張飛の孫で、張苞の子です。官職は尚書で、263年に諸葛瞻へ従って綿竹で鄧艾軍と戦い、死亡しました。将軍の子孫ですが、本人の官職も併せて見ておきましょう。 (出典:『三国志』巻36)
張紹(ちょうしょう)
区分:文官。
張飛の次子で、父の爵位を継ぎました。侍中・尚書僕射を務め、263年には劉禅の降伏書を鄧艾へ届けた使節の一人となります。本人の主な働きは宮廷の政務です。 (出典:『三国志』巻36、『三国志』巻33)
趙統(ちょうとう)
区分:武官・爵位継承者。
趙雲の子で、趙広の兄です。父の爵位を継ぎ、虎賁中郎・督行領軍となりました。爵位の継承と、趙雲が務めた軍職の継承は区別します。 (出典:『三国志』巻36)
張南(ちょうなん)
字:文進。区分:武官。
荊州から劉備に従って入蜀した武官です。呉征伐では前部を務め、222年に馮習とともに命を落としました。字の文進は『季漢輔臣賛』の注に記されています。 (出典:『三国志』巻45、『三国志』巻58)
張飛(ちょうひ)
字:益徳。区分:武官。
劉備の古くからの将軍です。長坂での拒敵や、巴西で張郃を退けた戦いが知られ、車騎将軍となりました。一方で部下への苛酷な扱いも記され、221年、張達・范彊に殺されています。正史の字は益徳です。 (出典:『三国志』巻36、『三国志演義』第1回)
詳しく:張飛 益徳(ちょうひ えきとく)
張苞(ちょうほう)
区分:将軍の子。
張飛の長子で、張遵の父です。正史の張飛伝は「早夭」と記すのみで、軍職や死因を詳しく伝えていません。関興とともに戦う姿や落馬による負傷は、『演義』での描写です。 (出典:『三国志』巻36、『三国志演義』第99回)
趙融(ちょうゆう)
区分:武官。
劉備の呉征伐に参加した武官です。陸遜伝では、輔匡・廖淳・傅肜らとともに劉備軍の別督として名が挙がります。劉備との詳しい交友関係は、その記録からは分かりません。 (出典:『三国志』巻58)
張翼(ちょうよく)
字:伯恭。区分:武官・地方統治。
庲降都督や左車騎将軍を務めた将軍です。姜維の北伐に従う一方、255年には国力を理由に出兵へ反対しました。従軍した人物の中にも、遠征の進め方をめぐる異論があったことが分かります。 (出典:『三国志』巻45)
趙累(ちょうるい)
区分:武官。
関羽に従った武官で、正史の官職は都督です。潘璋伝には、関羽・関平とともに捕らえられたと記されています。兵糧を担当する人物としての描写は『演義』にあります。 (出典:『三国志』巻55、『三国志演義』第73回)
陳祗(ちんし)
字:奉宗。区分:文官・軍政。
侍中・尚書令・鎮軍将軍を務めた官人です。劉禅に信任され、黄皓とも結び付いて政治へ影響を及ぼしました。258年に死去しています。 (出典:『三国志』巻39)
陳式(ちんしき)
区分:武官。
劉備・蜀漢に仕えた将軍です。229年、諸葛亮の命を受けて武都・陰平を攻め、両郡の獲得に関わりました。戦歴を知る手掛かりが諸葛亮伝に残っています。 (出典:『三国志』巻35)
陳寿(ちんじゅ)
字:承祚。区分:文官・歴史家。
『三国志』を編纂した歴史家です。譙周に学び、蜀で官職を務めた後、晋で著作郎などとなりました。三国の歴史を記した人自身も、蜀の社会を生きた人物だったんですね。 (出典:『華陽国志』巻11、『晋書』巻82・陳寿伝)
陳震(ちんしん)
字:孝起。区分:文官・外交。
尚書令・衛尉などを務めた外交官です。229年、孫権の皇帝即位を祝うため呉へ赴き、盟約を結びました。223年の修好交渉で知られる鄧芝とは、使節の時期が異なります。 (出典:『三国志』巻39)
陳到(ちんとう)
字:叔至。区分:武官。
劉備の豫州時代から従った将軍です。『季漢輔臣賛』の注では、名声と地位が趙雲に次いだとされます。永安都督・征西将軍としての官歴があり、本人の心情を示す記録とは分けて読みます。 (出典:『三国志』巻45、『三国志』巻40)
丁咸(ていかん)
区分:武官。
諸葛亮が李平の免官を議した公文に、行左護軍・篤信中郎将として名が残ります。これ以上の詳しい戦歴や人物像は、同じ記録からは分かりません。 (出典:『三国志』巻40)
程畿(ていき)
字:季然。区分:文官・従軍者。
漢昌長・江陽太守・従事祭酒などを務めました。劉備の呉征伐に従い、敗走の際にもその場を離れず、武器を取って戦い死亡したと記されています。 (出典:『三国志』巻45)
董允(とういん)
字:休昭。区分:文官。
劉禅の宮廷を支え、侍中や尚書令を務めた文官です。劉禅への諫言や黄皓を抑えた働きが記されています。246年に亡くなりました。 (出典:『三国志』巻39)
董恢(とうかい)
字:休緒。区分:文官・外交。
董允伝に、郎中として董允を訪ねた人物として登場します。費禕の副使として呉で応答した逸話は、裴松之注が引く『襄陽記』の記録です。ただし裴松之自身が任官時期などの不整合を指摘しており、確定した経歴としての扱いには注意が必要です。 (出典:『三国志』巻39、『襄陽記』)
董厥(とうけつ)
字:龔襲。区分:文官・軍政。
諸葛亮の府で令史・主簿などを務め、尚書令・大将軍へ進んだ官人です。字は龔襲。蜀滅亡後は魏へ移りました。 (出典:『三国志』巻35)
鄧芝(とうし)
字:伯苗。区分:武官・外交。
223年以後、呉との修好交渉に尽力した人物です。のちに車騎将軍となり、外交だけでなく軍事も担いました。鄧芝伝は、家に余財を蓄えなかったことも伝えています。 (出典:『三国志』巻45)
鄧良(とうりょう)
区分:文官。
鄧芝の子で、父の爵位を継ぎました。蜀では尚書左選郎、晋では広漢太守を務めています。父の外交上の逸話と、本人の官歴を取り違えないようにします。 (出典:『三国志』巻45)
董和(とうわ)
字:幼宰。区分:文官。
掌軍中郎将として、諸葛亮とともに府の事務を担いました。質素な暮らしと公正な統治が記録される文官です。董允の父でもあります。 (出典:『三国志』巻39)
杜瓊(とけい)
字:伯瑜。区分:学者・文官。
任安に学んだ学者で、太常などを務めました。『韓詩章句』を著し、譙周との対話も記録されています。予言的な解釈を含む逸話は、当時の学問や思想を知る手掛かりです。 (出典:『三国志』巻42)
杜微(とび)
字:国輔。区分:学者・文官。
任安に学び、諸葛亮からの招聘をいったん辞退した学者です。諸葛亮は書面で説き、杜微を諫議大夫に任じました。戦場に出る将軍とは異なる形で朝廷に迎えられた人物です。 (出典:『三国志』巻42)
【な行・は行】蜀の武将・人物一覧

馬謖(ばしょく)
字:幼常。区分:武官・参軍。
軍事の議論を好み、諸葛亮の参軍となった人物です。街亭の戦いで指示に背いて敗れ、処分されました。劉備による評価や諸葛亮の登用も記され、一度の戦いに至る経緯を追える人物です。 (出典:『三国志』巻39、『三国志』巻35、『三国志』巻43)
馬岱(ばたい)
区分:武官。
馬超の従弟で、平北将軍・陳倉侯となりました。諸葛亮の死後、楊儀側の命を受け、魏延を追って斬った人物としても知られます。 (出典:『三国志』巻36、『三国志』巻40)
馬忠(ばちゅう)
字:徳信。区分:武官・地方統治。
牂牁太守や庲降都督を務め、南中の統治に当たりました。寛厚な面と決断力を評価され、死後には現地で祀られています。呉の潘璋配下にいた同名の馬忠とは別人です。 (出典:『三国志』巻43、『三国志』巻55)
馬超(ばちょう)
字:孟起。区分:武官。
曹操との潼関の戦いで知られる将軍です。張魯を経て劉備へ加わり、蜀では驃騎将軍となりました。222年、47歳で亡くなったと馬超伝に記されています。 (出典:『三国志』巻36)
詳しく:馬超 孟起(ばちょう もうき)
馬良(ばりょう)
字:季常。区分:文官・外交。
荊州で劉備に仕えた文官で、侍中となりました。「白眉」の語で知られる人物です。呉征伐では荊州南部の諸族への働きかけを担い、222年の敗戦で死亡しました。 (出典:『三国志』巻39)
樊建(はんけん)
字:長元。区分:文官。
字は長元で、侍中・中書令などを務めた文官です。黄皓と親交を結ばず、蜀滅亡後は魏・晋に仕えました。字の記載は、諸葛亮伝の注に引かれる『晋百官表』で確認できます。 (出典:『三国志』巻35)
潘濬(はんしゅん)
字:承明。区分:文官・地方統治。
劉備の荊州治中として、留府の事務を担当した人物です。219年の呉による荊州攻略後は呉へ仕え、太常などを務めました。蜀側での経歴と、その後の呉での活動を分けて紹介します。 (出典:『三国志』巻45、『三国志』巻61)
費禕(ひい)
字:文偉。区分:文官・軍政。
諸葛亮の死後、蒋琬とともに蜀の政務・軍政を担った人物です。尚書令・大将軍を務めました。魏からの降人に殺され、その死は蜀後期の政治にも影響しました。 (出典:『三国志』巻44)
麋威(びい)
区分:武官。
麋竺の子で、虎賁中郎将を務めました。麋竺伝は、麋竺から子の麋威、孫の麋照まで、弓馬や射御に長じたと記しています。父とは異なり、本人には武官としての官職があります。 「糜威」とも表記されます。 (出典:『三国志』巻38)
費観(ひかん)
字:賓伯。区分:武官・地方官。
李厳とともに劉備へ降り、巴郡太守・江州都督・振威将軍などを務めました。劉璋の母が費観の一族の女性で、費観自身は劉璋の娘を妻としています。劉備の親戚とする説明とは区別が必要です。 (出典:『三国志』巻45)
麋竺(びじく)
字:子仲。区分:文官・支援者。
劉備の窮地を資金や人員で支えた人物です。多くの奴客や金銀貨幣を軍資として提供し、のちに安漢将軍となって厚遇されました。軍事指揮の実績とは別に、勢力を支える援助の大きさが分かります。 「糜竺」とも表記されます。 (出典:『三国志』巻38)
麋照(びしょう)
区分:武官。
麋威の子、麋竺の孫で、虎騎監を務めました。祖父や父とともに弓馬に長じたと記されますが、個別の詳しい戦歴は多く伝わっていません。 「糜照」とも表記されます。 (出典:『三国志』巻38)
麋芳(びほう)
字:子方。区分:武官・地方官。
麋竺の弟で、南郡太守を務めました。関羽との不和や処分への恐れが背景となり、呉へ降伏します。劉備勢力に長く属した後、帰属を変えた人物です。 「糜芳」とも表記されます。 (出典:『三国志』巻36、『三国志』巻45)
馮習(ふうしゅう)
字:休元。区分:武官。
荊州から劉備に従って入蜀した武官です。呉征伐では諸軍を率い、222年、張南とともに命を落としました。張南の前部に対し、馮習は大督として記されます。 (出典:『三国志』巻45、『三国志』巻58)
傅僉(ふせん)
区分:武官。
傅肜の子で、関中都督を務めました。263年の魏軍侵攻では、関城で蔣舒が降った後も抗戦し、戦死しています。 (出典:『三国志』巻44、『三国志』巻45)
傅肜(ふゆう)
区分:武官。
劉備の呉征伐に参加し、222年の敗走時には殿軍として敵に抗した将軍です。降伏を拒んで戦死したと記され、傅僉の父に当たります。正史は「傅肜」、『演義』は「傅彤」の表記です。 (出典:『三国志』巻45、『三国志演義』第84回)
法正(ほうせい)
字:孝直。区分:文官・軍師。
劉璋から劉備に仕え、益州攻略や漢中戦で策を献じました。尚書令・護軍将軍を務め、220年、45歳で亡くなっています。劉備の軍事上の相談相手として重要な人物です。 (出典:『三国志』巻37)
龐統(ほうとう)
字:士元。区分:軍師。
軍師中郎将として、劉備の益州攻略に助言した人物です。雒城を包囲していた際に流れ矢に当たり、36歳で亡くなりました。 (出典:『三国志』巻37)
詳しく:龐統 士元(ほうとう しげん)
彭羕(ほうよう)
字:永年。区分:文官。
治中従事などを務めた文官です。左遷への不満から馬超に語った内容を告発され、投獄・処刑されました。字は永年で、獄中から諸葛亮へ送った書簡も伝わります。 (出典:『三国志』巻40)
龐林(ほうりん)
区分:文官。
龐統の弟で、荊州治中従事を務めました。劉備の呉征伐後、黄権とともに魏へ降り、鉅鹿太守となります。長く離れていた妻との再会の話も、注に引かれる『襄陽記』に残っています。 (出典:『三国志』巻37)
輔匡(ほきょう)
字:元弼。区分:武官・地方官。
劉備に従って入蜀し、巴郡太守を務めた人物です。鎮南将軍・右将軍、中郷侯となりました。地方官と武官の双方の官歴があります。 (出典:『三国志』巻45)
【ま行・や行】蜀の武将・人物一覧

孟獲(もうかく)
区分:南中有力者・官人。
南中の有力者として知られる人物です。裴松之注所引『漢晋春秋』や『華陽国志』には、諸葛亮との七縦七擒の話があります。『華陽国志』は平定後に御史中丞となったとも記しており、演義だけの創作人物としては扱えません。 (出典:『三国志』巻35、『華陽国志』巻4)
孟達(もうたつ)
字:子度(旧字・子敬)。区分:武官・地方官。
劉璋から劉備に仕えた後、劉封と対立して魏へ移りました。魏では新城太守となり、さらに蜀と通じますが、司馬懿に攻められて死亡しました。複数の勢力を移った経歴そのものが重要です。 (出典:『三国志』巻40、『三国志』巻14)
楊儀(ようぎ)
字:威公。区分:文官・参軍。
諸葛亮の長史などを務め、軍の編成や食糧の処理を担いました。諸葛亮の死後に魏延と対立し、その後は自身も左遷されます。発言を問題とされて庶人となり、最後は自殺しました。 (出典:『三国志』巻40)
楊戯(ようぎ)
字:文然。区分:文官・著述家。
字は文然で、蜀の人物をたたえた『季漢輔臣賛』を著しました。この賛と注には、本伝のない人物を知る手掛かりが多く残っています。姜維への言動が問題となり、免官された経歴もあります。 姓名は「楊戲」とも書きます。 (出典:『三国志』巻45)
楊顒(ようぎょう)
字:子昭。区分:文官。
諸葛亮の主簿や東曹属を務めました。『襄陽記』には、諸葛亮が細かな仕事まで自ら処理することを諫め、職務を分担するよう説いた話が伝わります。 (出典:『三国志』巻45)
楊洪(ようこう)
字:季休。区分:文官・地方官。
漢中への増援を急ぐよう献策し、蜀郡太守などを務めた文官です。行政の公正さでも評価されました。字は季休で、文然を字とする楊戯とは異なります。 (出典:『三国志』巻41)
【ら行】蜀の武将・人物一覧

頼恭(らいきょう)
区分:文官・儀礼。
劉備の漢中王即位時に太常を務めた人物です。皇帝即位の勧進にも名を連ねています。軍事の戦功を挙げた将軍ではなく、朝廷の儀礼に関わった文官として捉えます。 (出典:『三国志』巻45、『三国志』巻32)
雷銅(らいどう)
区分:武官。
劉備の将軍として、218年に呉蘭らと武都へ進出しました。曹操軍に敗れて命を落としています。張飛との共闘などを読む際には、『演義』で加えられた描写と区別します。 (出典:『三国志』巻32)
羅憲(らけん)
字:令則。区分:武官・外交。
劉禅の下で呉への使節を務め、のちに永安へ駐屯しました。蜀が魏に降伏した後、攻め寄せた呉軍に抗して永安を守ります。その後は魏、さらに晋に仕えました。 (出典:『三国志』巻41)
李恢(りかい)
字:徳昂。区分:武官・地方統治。
庲降都督として南中を担当しました。225年の南征では建寧方面へ進み、昆明での包囲を破っています。南中の統治や兵員・物資の確保にも関わった人物です。 (出典:『三国志』巻43)
李球(りきゅう)
区分:武官。
李恢の弟の子で、羽林右部督を務めました。263年に諸葛瞻へ従い、綿竹で鄧艾軍と戦って死亡しています。 (出典:『三国志』巻43)
李厳(りげん)
字:正方。区分:文官・軍政。
諸葛亮とともに劉備の遺詔を受け、中都護などを務めた重臣です。のちに李平へ改名しました。231年、兵站の不調に伴う撤軍指示と、その後の説明の食い違いが問題となり、免官されています。 (出典:『三国志』巻40)
李譔(りせん)
字:欽仲。区分:学者・宮廷官。
経書に詳しく、太子の庶子・僕射などを務めた学者です。算術・卜数・医薬・弓弩・機械にも通じたと記されます。幅広い知識を持ち、経書の注釈も著しました。 (出典:『三国志』巻42)
李邈(りばく)
字:漢南。区分:文官。
字は漢南で、犍為太守や丞相参軍などを務めました。劉備による益州取得への批判や、馬謖の処刑をめぐる諫言で知られます。諸葛亮の死後の上疏で劉禅を怒らせ、処刑されました。 (出典:『三国志』巻45)
李福(りふく)
字:孫徳。区分:文官・軍政。
字は孫徳で、尚書僕射などを務めた文官です。病中の諸葛亮を訪ね、死後の国政を担う人物について質問しました。そこで蒋琬、次いで費禕の名を聞いたと伝えられます。 (出典:『三国志』巻45)
李豊(りほう)
区分:文官・軍政。
李厳の子で、蜀の官人です。江州を督した後、父の免官後も中郎参軍として留府の仕事を担いました。のちには朱提太守となっています。魏の同名人物とは別人です。 (出典:『三国志』巻40)
柳隠(りゅういん)
字:休然。区分:武官・地方官。
漢中の黄金囲を守った将軍です。魏軍の侵攻にも降らず、劉禅の手令が届いた後に出降しました。蜀滅亡後は晋に仕え、西河太守となっています。 (出典:『華陽国志』巻11)
劉永(りゅうえい)
字:公寿。区分:皇族。
劉備の子で、魯王、のち甘陵王となった皇族です。黄皓との不和から劉禅に疎まれたことが記されます。蜀滅亡後は東へ移りました。 (出典:『三国志』巻34)
劉幹(りゅうかん)
区分:地方官。
王連に抜擢され、典曹都尉や巴西太守を務めた官人です。呂乂・杜祺と親しかったと記されています。姓名には「劉干」の表記もあります。 (出典:『三国志』巻39、『三国志』巻41)
劉諶(りゅうしん)
区分:皇族。
劉禅の子で、北地王です。裴松之注が引く『漢晋春秋』は、263年の降伏に反対し、劉備の廟で妻子を殺した後に自殺したと伝えます。戦場での軍功を持つ将軍とは区分を分けます。 (出典:『三国志』巻33)
劉禅(りゅうぜん)
字:公嗣。区分:皇帝。
蜀漢の第2代皇帝で、223年から263年まで在位しました。蒋琬・費禕・姜維らの時代を通じて国を治め、魏へ降伏します。翌264年に東へ移り、安楽県公となりました。 (出典:『三国志』巻33)
劉璿(りゅうせん)
字:文衡。区分:皇太子。
劉禅の子で、字は文衡です。238年に皇太子となりました。蜀の降伏後、264年正月の鍾会の乱で、乱兵に殺されています。 (出典:『三国志』巻34)
劉巴(りゅうば)
字:子初。区分:文官。
尚書令として、詔書など朝廷の重要な文章の作成を担いました。裴松之注が引く『零陵先賢伝』には、直百銭を鋳造して財政を立て直す策を勧めた話もあります。注が伝える逸話として読みます。 (出典:『三国志』巻39)
劉備(りゅうび)
字:玄徳。区分:皇帝・君主。
後漢末に挙兵し、荊州・益州・漢中へと勢力を広げた君主です。221年に皇帝となり、蜀漢を建てました。223年に死去し、劉禅と諸葛亮らへ後事を託します。 (出典:『三国志』巻32)
詳しく:劉備 玄徳(りゅうび げんとく)
劉封(りゅうほう)
区分:武官・養子。
劉備の養子で、副軍将軍を務めました。上庸で孟達と対立し、関羽への救援をめぐる問題も抱えます。敗れて成都へ戻った後、劉備に自裁を命じられました。 (出典:『三国志』巻40)
劉理(りゅうり)
字:奉孝。区分:皇族。
劉備の子で、字は奉孝です。梁王から安平王へ移り、馬超の娘を妻としました。244年に亡くなっています。軍を率いた将軍ではなく、皇族として紹介します。 (出典:『三国志』巻34、『三国志』巻36)
廖化(りょうか)
字:元倹(本名・淳)。区分:武官。
もとの名は淳で、字は元倹です。関羽の主簿を務め、呉の支配下から蜀側へ戻りました。のちに右車騎将軍となり、264年に東へ移る途中で死亡しています。『演義』の黄巾時代からの活躍と、正史の経歴は分けて読みます。 (出典:『三国志』巻45)
詳しく:廖化 元倹(りょうか げんけん)
呂乂(りょがい)
字:季陽。区分:文官・地方官。
巴西・漢中などの太守を歴任し、兵員や食糧の確保を通じて諸葛亮の軍を支えました。のちに尚書令となっています。厳しい法の運用についても評価の残る、行政実務を担った人物です。 (出典:『三国志』巻39)
呂凱(りょがい)
字:季平。区分:地方官。
永昌の五官掾・功曹として、王伉や吏民とともに雍闓へ抵抗しました。諸葛亮の南征後は雲南太守となります。永昌を保った働きは、一人の功績ではなく、王伉らとの協力として記されています。 (出典:『三国志』巻43)
史料の記載が限られる人物
名前が文書に残っていても、官職や戦歴まで分かるとは限りません。次の人物は、記載のある文書とその性格を併せて紹介します。
白寿(はくじゅ)
区分:伝存文書に名がある人物。
裴松之注が引く『黙記』に伝わる『後出師表』に、名が挙がる人物です。この文書は諸葛亮集に載っていないと裴松之が付記しています。白寿の官職や具体的な戦歴は詳しく分からず、伝存する文書に名がある範囲で紹介します。 (出典:『三国志』巻35)
演義・伝承と、蜀の人物の後裔
ゲームや小説で見かける名前の中には、『演義』や説話に登場する人物もいます。物語の舞台が蜀であっても、史料で経歴をたどれる武将とは分けて紹介します。
演義・説話に登場する人物
関索(かんさく)
区分:演義・説話人物。
『三国志演義』第87回に、関羽の子として登場します。説話や作品によって妻や活躍の設定が異なるため、それぞれの物語の人物として読むと楽しめます。正史で経歴を確認できる蜀の武将とは分けて扱います。 (出典:『三国志演義』第87回)
甯随(ねいずい)
区分:演義人物。
『三国志演義』第116回に、姜維の副将として登場します。蜀攻略を進める魏軍への対処について、姜維に助言する人物です。演義の登場人物として紹介し、正史の官人と同じ経歴一覧には混ぜません。 「寗随」の表記もあります。 (出典:『三国志演義』第116回)
盧遜(ろそん)
区分:演義人物。
『三国志演義』第116回に登場する、蜀末期の南鄭関の守将です。鍾会の軍と戦い、荀愷に射落とされます。劉備の呉征伐の先鋒ではなく、呉の陸遜とも別の人物です。 (出典:『三国志演義』第116回)
蜀の人物の後裔
諸葛京(しょかつきょう)
字:行宗。区分:蜀の将軍の子・晋官。
諸葛瞻の次子で、字は行宗です。264年に河東へ移り、晋では郿令・江州刺史となりました。蜀で将軍として活躍した経歴は確認できないため、諸葛氏の後裔として紹介します。 (出典:『三国志』巻35)
後世の系譜に記される人物
関樾(かんえつ)
区分:後世の系譜・伝承上の人物。
清代の『江陵県志』で、関平の子と伝えられる人物です。1877年刊本の巻五には、関平が趙氏を娶り、子の樾を生んだとする系譜があります。三国時代の実在性や蜀での仕官は裏づけられておらず、後世の系譜・伝承として扱います。 (出典:『江陵県志』(1877年)巻5)
劉備の時代から蜀末期までの流れ


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
働いた時期と役割を重ねると、顔ぶれの変化が分かるんじゃ。いくつもの時期をまたいで働いた者もおるぞ。

私は街亭で丞相の指示に従わず敗れました。山に布陣する判断が、軍を危うくしてしまったのです……。
人物の多さに戸惑ったら、活動した時期を重ねて見ると関係がつかみやすくなります。世代ごとに完全に入れ替わるわけではなく、複数の時期をまたいで働いた人もいます。
| 時期 | 主な人物 | どんな時代か |
|---|---|---|
| 劉備の勢力形成期 | 関羽・張飛・簡雍・麋竺 | 劉備が各地を移りながら勢力を保った時代 |
| 荊州・益州から漢中へ | 諸葛亮・龐統・法正・黄忠・馬超・魏延 | 益州を得て、漢中をめぐる戦いを進めた時代 |
| 劉備死後の政権と北伐 | 諸葛亮・蒋琬・費禕・王平・董允 | 劉禅を補佐し、統治や対魏戦を続けた時代 |
| 蜀末期と滅亡後 | 姜維・張翼・廖化・諸葛瞻・羅憲 | 魏の侵攻と降伏、その後の混乱に直面した時代 |
たとえば黄忠・馬超・法正・魏延は、蜀漢成立より前に劉備へ加わっています。劉備の挙兵、益州攻略、皇帝即位という出来事を区別すると、それぞれの加入時期も整理できます。(出典:『三国志』巻32、『三国志』巻36、『三国志』巻37、『三国志』巻40)


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
誰かのために生きる姿は、時代を超えて響くものじゃ。この名簿とともに、新たな視点で物語を楽しむがよい。
よくある質問
蜀の武将で有名なのは誰?
関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠が代表的です。国全体の動きを知るなら、君主の劉備や丞相の諸葛亮、後期の国政・軍事を担った蒋琬・費禕・姜維も併せて見ると分かりやすくなります。
この一覧には文官や皇族も入っている?
入っています。戦場で軍を率いた武官に加え、行政・外交・学問を担った文官、君主や皇族、将軍の家族も区分を付けて紹介しています。見出しの全員に軍職や戦功があった、という意味ではありません。
正史と演義では人物の経歴が違う?
違う場合があります。たとえば関平は正史では関羽の子、『演義』では養子です。張苞も、正史本文の短い記録と、『演義』の武将としての活躍には違いがあります。
諸葛亮が亡くなった後は、誰が蜀を支えた?
国政・軍政では蒋琬や費禕が重要です。姜維はその後、大将軍として北伐を指揮しました。政治と軍事の役割、活動した時期を分けて捉えると、全員を同じ「若い後継者」としてまとめずに理解できます。
(出典:『三国志』巻44)

さて、気になる人物は見つかりましたか。小テストの前に、字と役割をおさらいしておきましょう。
出典について
『三国志』本文、裴松之注に引用された別の史料、『華陽国志』などの後世の史書、『三国志演義』は、成立時期や性格が異なります。出典に名があることと、そこで語られる逸話の細部をすべて確定できることも同じではありません。
人物ごとに、何が記されているかを確かめながら読むための参照先を挙げます。電子本文には異体字や校訂による違いがあるため、表記の異なる人物は本文でも補っています。
資料を読む:正史三国志
- 常璩『華陽国志』巻1。
- 常璩『華陽国志』巻4。
- 常璩『華陽国志』巻7。
- 常璩『華陽国志』巻10。
- 常璩『華陽国志』巻11。
- 1877年刊『江陵県志』(別題『続修江陵県志』)巻五・壇廟、八〜九葉(PDF190〜191ページ)。
- 『晋書』巻82・陳寿伝。
- 陳寿『三国志』巻14(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻28(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻32(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻33(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻34(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻35(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻36(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻37(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻38(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻39(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻40(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻41(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻42(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻43(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻44(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻45(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻55(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻58(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻61(掲載の裴松之注を含む)。
- 陳寿『三国志』巻9(掲載の裴松之注を含む)。
- 『襄陽記』(襄陽耆旧記)。
- 羅貫中『三国志演義』第1回。
- 羅貫中『三国志演義』第116回。
- 羅貫中『三国志演義』第28回。
- 羅貫中『三国志演義』第73回。
- 羅貫中『三国志演義』第83回。
- 羅貫中『三国志演義』第84回。
- 羅貫中『三国志演義』第87回。
- 羅貫中『三国志演義』第91回。
- 羅貫中『三国志演義』第99回。
歴史の面白さを知ると、次は「もし自分があの場にいたら…」と妄想が止まりませんよね(笑)。
そんなあなたの「IF(もしも)」を叶えてくれるのは、最新作の『8リメイク』か、
それとも圧倒的戦略の『14』か。
▶️🔗【三國志8リメイクwithPK】14とどっちが面白い?
どちらがより「三国志体験」を味わえるのか、徹底的に比較してみました!
三國志8リメイク、乗り遅れるのはもったいない!
「久々だから」と迷うその背中、あの豪快な漢にガツンと叩いてもらいましょう。
さあ、あなたも主役です!

おい!!何をごちゃごちゃ考えとんじゃ!迷ってる暇があったら、早よ予約して支度せんかい!わしらが暴れる戦場……お前の席、一番前で空けといたるわ!!

ハマりすぎて「連環の計」状態や!
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週末が秒で消えるで。

[三國志8 REMAKE(Amazon)]は人間ドラマの宝庫や。「三顧の礼」尽くしてでも手に入れる価値あるで!

ゲーム界の「赤兎馬」がついに来た![二ンテンドースイッチ 2]、この進化、乗らな損やで。







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