
夷陵の戦いは、呉へ攻め込んだ劉備が、陸遜の反撃で敗れた戦いです。劉備が出兵したのは221年、決着は222年でした。
「関羽の仇討ち」「陸遜の火計」。名場面は知っていても、その間の流れは分かりにくいものです。地名が増えると、頭の中の地図もお手上げになります。
まずは、攻める劉備と、進撃を止めたい呉の立場を押さえましょう。地図と一緒に追うと、陸遜が待った理由も見えてきます。
このブログは、三国志が「好き」で終わらず、
「ちゃんと分かる」物語へと変わっていく、
その過程を一緒にたどる場所です。
もしも、三国志が本当に分かったら。
その最初の一歩を、ここから始めましょう。

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本文は史書『三国志』を軸にしています。図は位置関係や戦況を示す概略図です。キャラの吹き出しは、理解を助ける創作です。
夷陵の戦いとは?誰が・どこで戦い、どうなったのか


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
劉備の東征を、陸遜が破ったのじゃ。
夷陵の戦いは、蜀と呉の戦争です。劉備は蜀の皇帝として、自ら出陣しました。迎え撃ったのは孫権側の軍で、総指揮を執ったのが陸遜です。
位置関係は、ひとまず「西から東へ」でつかめます。劉備は蜀側から、長江沿いに呉の支配する地域へ進みました。夷陵(いりょう)や猇亭(おうてい)は、その進攻先の地名です。

戦域は現在の中国・湖北省宜昌(ぎしょう)周辺に当たります。宜昌市の地方史機関による説明でも、宜昌で起きた戦いとして紹介されています。ただし、当時の地名や県の範囲は、現在の行政区と同じではありません。
劉備軍は陸遜の反撃を受け、西の白帝城(はくていじょう)方面へ退きます。まず「東へ攻め、西へ戻った」と覚えると、話を追いやすくなります。出典:『三国志』先主伝。
なお、孫権が皇帝になるのは後の229年です。この記事では、当時の孫権側の勢力を分かりやすく「呉」と呼びます。
では、劉備はなぜ呉へ攻めたのでしょう。赤壁での協力から、関係の変化をたどります。

地名は進む向きと戻る向きから。暗記の荷物は軽めでいきましょう。
なぜ劉備は呉へ攻めた?関羽の死と荊州の重要性


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
関羽の死と、荊州の対立が重なるのじゃ。
劉備の出兵の背景には、関羽の死と荊州をめぐる対立がありました。親しい武将を失った怒りと、重要な拠点を失った事情を、順に見るとつながります。
赤壁で協力した劉備と孫権は、荊州をめぐって対立した
208年の赤壁の戦いでは、劉備と孫権は曹操に対抗して協力しました。ただ、共通の敵がいても、領土への考えまで同じになるわけではありません。
両者の間にあった大きな問題が、荊州(けいしゅう)です。これは一つの城ではなく、長江流域に広がる地域の名前です。劉備側と孫権側は、その拠点の支配をめぐって対立していきます。
219年、孫権側は関羽の背後にある拠点を攻略しました。関羽は帰る足場を失い、捕らえられて殺されます。劉備側は、荊州に持っていた重要な拠点も失いました。
赤壁の協力から十年以上の間に、関係は変わっていたのです。荊州全体が、そのまま劉備領から呉領へ移ったと考えないのが整理のこつです。出典:『三国志』呉主伝。
関羽を失った劉備と、荊州の拠点を守りたい呉
『三国志』先主伝には、関羽を襲った孫権に劉備が怒り、東征したとあります。関羽への思いは、演義だけが付け加えた動機ではありません。出兵前の和の申し出も、このときは受け入れませんでした。
先主忿孫權之襲關羽,將東征
『三国志』巻32・蜀書「先主伝」本文(原文・抜粋)
筆者訳:劉備は、孫権が関羽を襲ったことに憤り、東征しようとしました。
地図右側の戦域は、荊州に含まれる一帯です。荊州は蜀側と長江の中下流を結びます。失った拠点を回復する意味も、遠征を考える大切な背景です。これは地理と行動からの説明で、劉備の唯一の目的と断定するものではありません。
呉にとっては、西から来る劉備軍を止める必要がありました。陸遜も、夷陵を失えば荊州が危ういと述べています。攻め進む側と守る側では、同じ場所にも違う意味があったわけです。出典:先主伝・陸遜伝。

この表は、両軍の行動を理解するための整理です。呉が待ってさえいれば必ず勝てた、という意味ではありません。
関羽の歩みは、関羽のプロフィールと最期でつながります。次は、この対立が実際の戦い方にどう表れたかを見ていきましょう。

同じ川を見ても、攻める側と守る側では気になる場所が違うのです。
劉備はなぜ敗れた?陸遜の作戦を戦況の変化から読む


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
軍の変化を見て、陸遜が反撃したのじゃ。
劉備の敗因は、長い対陣による軍の変化と、陸遜の反撃を合わせて見ると分かります。「進軍・対陣・反撃・退却」の四つに分け、地図の向きを変えずに追いましょう。
なぜ陸遜は、攻め込んだ劉備軍との決戦を急がなかった?

陸遜は、攻め込んだばかりの劉備軍を、簡単に破れる相手とは見ていませんでした。陸遜伝の注に引かれた『呉書』には、敵の勢いが強く、高い場所や険しい地形を守っているとの判断があります。
無理に攻めて呉軍が損害を受ければ、守りたい荊州まで危うくなります。そこで、兵を励まして守りを整え、変化を待ちました。
劉備側の呉班(ごはん)が平地へ部隊を出したときも、すぐには攻めません。陸遜は伏兵を疑い、後に劉備側の伏兵が姿を現しました。攻撃しない場面にも、敵の仕掛けを見抜く判断があったのです。出典:陸遜伝本文・裴松之注所引『呉書』。
対陣が長引く中で、劉備軍の何が変わった?

対陣が長引くと、攻め込んだ当初と同じ条件では戦えなくなります。陸遜は、劉備軍の兵が疲れ、気持ちもくじけてきたと述べました。遠征が長引き、成果を得られない時間は負担になります。
兵疲意沮,計不復生
『三国志』巻58・呉書「陸遜伝」本文/陸遜の発言(原文・抜粋)
筆者訳:兵は疲れ、気持ちはくじけ、もはや策も生まれなくなっています。
陣の置き方にも目を向けています。陸遜は当初、水軍と陸軍が一緒に進むことを警戒しました。その後、劉備側が船を離れて歩兵を進め、各所に陣を置く様子を報告しています。
ここからは、敵の配置の変化も攻撃の判断材料だったと読めます。ただし、蜀の水軍が全ていなくなったという意味ではありません。先主伝には水軍や江北の別部隊も記され、戦域には複数の動きがありました。出典:陸遜伝・先主伝。
火攻めは、どのように蜀軍の大敗につながった?

陸遜伝では、まず一つの陣を攻めたものの、不利だったと記されます。初めから、何もかも予定通りに進んだわけではありません。
陸遜は兵に茅を持たせ、火攻めで陣を破ります。続いて諸軍が同時に攻め、四十余りの営を破ったとあります。劉備側の馮習(ふうしゅう)や張南(ちょうなん)らも戦死しました。
乃敕各持一把茅,以火攻拔之。一爾勢成,通率諸軍同時俱攻
『三国志』巻58・呉書「陸遜伝」本文(原文・抜粋)
筆者訳:兵にそれぞれ一束の茅を持たせ、火攻めで陣を落としました。勢いを得ると、諸軍を率いて一斉に攻めました。
劉備は馬鞍山(ばあんざん)で兵をまとめますが、呉軍に四方から圧迫されます。陣を失うことに加え、各軍の攻撃と包囲が重なり、大きな敗走につながりました。
火をつけた後も、軍同士の攻撃は続いています。そこまで追うと、大敗への流れがつかめます。出典:陸遜伝。
敗れた劉備は、どこへ退いた?

劉備は東へ攻めた道を戻るように、西へ退きました。先主伝には、猇亭から秭帰(しき)へ戻り、散った兵を集めたとあります。そこから船を捨て、陸路で魚復(ぎょふく)へ帰りました。
先主自猇亭還秭歸,收合離散兵
『三国志』巻32・蜀書「先主伝」本文(原文・抜粋)
筆者訳:劉備は猇亭から秭帰へ戻り、散り散りになった兵を集めました。
魚復はこのとき永安(えいあん)と改められ、白帝城もその周辺にあります。細かな地名を一度に覚えるより、「戦場から秭帰へ、さらに西の拠点へ」と追うと整理できます。
一方、長江の北側にいた黄権(こうけん)の部隊は、帰還する道を失いました。劉備本隊の退却が、離れた部隊にも影響したのです。黄権は呉ではなく魏へ降りました。出典:先主伝・『資治通鑑』巻69。


史書の数字にも、報告の時点や数えた範囲という問題があります。単純な人数比だけで勝敗を説明しないようにしましょう。演義第81回の原文には「共兵七十五萬」とあります。出典:文帝紀・『資治通鑑』巻69・『三国演義』第81回。
「七百里の連営」の話は、演義だけでなく文帝紀本文にもあります。ただし、正確な距離や、炎が届いた範囲をそのまま再現できる記録ではありません。ここでは、222年の夏に決着したと整理しています。
陸遜の歩みも気になったら、陸遜の生涯と人物像へどうぞ。ここからは、敗れた劉備と、戦争を終えた両国の行方をたどります。

地図の矢印が戻るところまで見ると、火計の先の話もつながりますね。
夷陵の戦いの後は?劉備の最期と蜀呉関係の立て直し


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
敗戦の後、蜀と呉は関係を結び直すのじゃ。
夷陵の敗戦後、劉備は生きて永安へ戻りました。その後、蜀と呉は関係を立て直します。敗戦、劉備の死、諸葛亮の北伐には時間の隔たりがあるので、分けて見ていきましょう。
劉備は敗走後も生存し、翌223年に永安で亡くなった
劉備が亡くなったのは、戦いが決着した翌年の223年です。夷陵で討ち死にしたわけではありません。先主伝には、永安で病が重くなり、諸葛亮を呼んで後事を託したと記されます。
222年には、孫権側から改めて和の申し出があり、劉備も応じています。出兵前には受けなかった話を、敗走後は受け入れたのです。
荊州の拠点を取り戻せず、将兵や軍資を失った痛手は大きいものでした。それでも、蜀の歴史はここで終わりません。劉備の死後は劉禅(りゅうぜん)が継ぎ、諸葛亮が政治を担います。出典:先主伝・諸葛亮伝。
劉備の歩みは、劉備の生涯と人柄でも振り返れます。
戦った蜀と呉は、なぜ再び手を組んだのか
両国の北には、魏という大きな勢力がありました。蜀と呉が互いに戦い続ければ、魏に向き合ううえで負担になります。関係の修復には、そうした事情もありました。
陸遜伝には、呉の諸将が追撃を望む一方、陸遜らは曹丕の動きを警戒したとあります。呉も、劉備だけを見ていればよい状況ではなかったのです。
223年、諸葛亮は呉へ使者を送り、関係を結び直します。蜀は国内の立て直しや南征を経て、228年に最初の北伐へ進みました。敗戦の直後に、すぐ北伐が始まったわけではありません。出典:陸遜伝・諸葛亮伝。

法正伝には、法正がいれば東征を止められたか、危険な敗戦を防げたとする諸葛亮の嘆きも残ります。ただし、「必ず勝てた」と証明する話ではありません。法正が生きていたらという考察は、記録と仮定を分けて楽しみましょう。出典:法正伝。
物語全体の中で見直したいときは、三国志演義のあらすじへどうぞ。戦いの前後がつながると、次の場面もずっと追いやすくなります。

歴史は敗戦でページを閉じません。次の判断も見ていきましょう。
まとめ|夷陵の戦いは、両軍の立場と戦況の変化でつかもう


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
立場と戦況を重ねると、流れが見えるぞ。
夷陵の戦いは、関羽の死と荊州をめぐる対立を背景に、劉備が呉へ攻め込んだ戦いです。221年に出兵し、222年に陸遜の反撃で敗れました。
地図では、西から東への進軍、長い対陣、呉軍の反撃、西への退却という流れになります。陸遜が攻めなかった場面と、攻め始めた場面を比べると、劉備の敗因も理解しやすくなります。
戦いの決め手は、軍の状態を見た判断と、火攻めに続く諸軍の攻撃でした。劉備の怒りという開戦の背景と、現地で敗れた過程を合わせて押さえましょう。
その後、劉備は翌223年に亡くなり、蜀と呉は関係を立て直します。次に漫画やドラマで夷陵の場面に出会ったら、陸遜が待っている時間にも注目してみてください。動かない場面にも、戦いは進んでいます。

地名を全部覚えなくても大丈夫。両軍が何を見ていたかを追ってみましょう。
参考史料と図の読み方
本文中の出典リンクは、史書『三国志』の各伝・紀、その注、後世の『資治通鑑』、小説『三国演義』のオンライン翻刻へつながります。史書の本文と注、編年史、小説を分けて参照しています。
地図は本記事用の概略図です。川の形・距離・古戦場の全陣地・現代の行政区界は再現していません。本文の月は当時の暦によるため、現代の同じ月と直結させていません。
👉 劉備の進軍・対陣・陸遜の反撃をつなぐと、敗戦の流れが分かります。
❓ 夷陵の戦いは何年に起き、誰が勝った?
劉備が呉へ出兵したのは221年で、222年に陸遜が指揮する呉軍が劉備軍を破りました。長江沿いの夷陵・猇亭一帯が戦域です。劉備は敗走し、翌223年に永安で亡くなりました。
❓ 夷陵の戦いと猇亭の戦いは同じ?
一般に、劉備の呉への遠征と陸遜による撃破を指す呼び方です。猇亭は劉備が陣を置き、敗れたと記される地名です。史料では複数の場所に軍が展開し、一つの地点だけで全てが起きたわけではありません。
❓ 陸遜はなぜすぐ攻撃しなかった?
陸遜は当初の劉備軍を、勢いが強く、険しい地形などを守る攻めにくい相手と見ました。無理に攻めて呉軍が損害を受けることを避け、対陣を続けながら、疲れや配置の変化を見て反撃へ移りました。
❓ 劉備軍は本当に70万・75万いた?
演義第81回では七十五万と描かれます。一方、史書には劉備側四万人という孫権の報告があり、資治通鑑には四万余人とあります。小説と史書を分け、史書の数字も報告時点や範囲に注意して読みます。
❓ 劉備は夷陵の戦いで亡くなったの?
劉備は夷陵で討ち死にしたのではありません。222年の敗戦後、秭帰で兵を集め、西の永安・白帝城方面へ退きました。翌223年、永安で病が重くなり、諸葛亮らに後事を託して亡くなりました。







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