
ゲームや漫画で、勇ましい孫尚香を好きになった方もいるでしょう。ところが、最後を調べると「川に身を投げた」と出てきます。物語なのか史実なのか、少し戸惑いますよね。
孫尚香の死因は、正史では分かりません。『三国志演義』では、劉備の死の誤報を聞いて入水します。名前や人物が多くて混乱しやすい三国志ですが、史書と物語を分ければ、話はつながります。
ここでは最期の違いを入口に、呉への帰還や家族関係をたどります。
このブログは、三国志が「好き」で終わらず、
「ちゃんと分かる」物語へと変わっていく、
その過程を一緒にたどる場所です。
もしも、三国志が本当に分かったら。
その最初の一歩を、ここから始めましょう。

利を見ては動くべし!お得な情報、見逃すなよ?
※この記事には曹操様も納得(?)なPRリンクが含まれています。
孫尚香の死因と最後|正史は不明、演義では入水


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
史書と物語の最後は分けて読むのじゃ。
孫尚香の死因は、正史では分かりません。川に身を投げたという最後は、『三国志演義』の描写です。
まずは、この二つを分けて読むと混乱がほどけます。物語では「劉備が亡くなった」という知らせが届きますが、それは誤報でした。
正史では死因・没年を確認できない
歴史上の孫尚香は、史書では孫夫人と呼ばれます。孫権の妹で、劉備の妻になった女性です。婚姻や呉への帰還の記録はありますが、死因と没年は確認できません。
「記録がない」と聞くと、病死だったのかもしれないと思いますよね。ただ、病死と決める根拠も、自死と決める根拠も足りません。分からない部分を残すのが、ここでの答えです。
後世の史論『四史餘論』でも、帰呉後の最期は不明と論じられています。入水の話だけで生涯を結びたくなりますが、史書を読むときは一度立ち止まりましょう。
『三国志演義』第84回では劉備の死の誤報を聞いて入水
『三国志演義』第84回では、孫夫人は呉にいます。夷陵の戦いで劉備が敗れた後、軍中で死んだという誤報を聞きます。
彼女は川辺へ向かい、西を望んで泣いた後、川に身を投げます。原文の「訛傳」は、誤った知らせを意味します。つまり、夫の死を知って後を追ったというより、死んだと思い込んだ悲劇なんです。
この場面は小説の中にある出来事です。登場人物の心情を伝える物語として読めますが、歴史上の孫夫人の死亡記録にはできません。史実を語るときは、「演義では」と一言添えましょう。
出典:『三国志演義』第84回
劉備は夷陵の戦いで亡くなったわけではない
孫夫人の入水場面と、劉備の実際の死去は別の話です。『三国志演義』第84回でも、劉備は白帝城へ逃れています。読者は生存を知っているのに、孫夫人には誤報が届く構図です。
歴史では、劉備が夷陵で敗れたのは222年です。翌223年、章武3年に永安宮で亡くなります。敗戦の日に命を落としたわけではありません。
「敗れた」「死んだ」「死んだと伝わった」を分けると、流れが見えますね。夷陵で劉備を破った人物は陸遜です。戦いの背景は、陸遜の人物紹介でも読めます。

では、物語から少し離れて、史書に残る呉への帰還を見てみましょう。

私の避難先は白帝城。町の名前も目印にすると、敗戦後の話を追いやすくなりますね。
正史に残る孫夫人の呉への帰還


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
帰呉の記録と、死因は別の話なのじゃ。
史書に残る孫夫人の大きな出来事は、呉への帰還です。劉備が益州へ向かった後、孫権が妹を迎えに来させたと記されています。
このとき、劉禅を連れて帰ろうとした話もあります。ただし、その詳しい場面は史書に付された注の記述です。本文と注を分けてたどりましょう。
劉備の入蜀後、孫権が妹を迎えに来させた
益州は、現在の四川地方を中心とする地域です。劉備がそこへ向かった後、孫夫人は兄のいる呉へ帰ります。これは、夷陵での敗戦より前の出来事です。
『三国志』の二主妃子伝には、孫夫人が呉へ帰ったことが記されています。裴松之の注が引く『漢晋春秋』では、呉が迎えを出したと説明されます。
注は、本文を補うために別の史料を紹介する部分です。裴松之は、本文の短い記録に別の説明を添えています。劉備の入蜀、孫夫人の帰呉という順番を押さえると、夷陵の話と混ざりにくくなります。
劉禅を連れて帰ろうとした話は史書の注にもある
孫夫人が劉禅を呉へ連れて行こうとした話は、演義だけの逸話ではありません。劉禅は劉備の子で、後に蜀の皇帝になる人物です。
趙雲伝の注が引く『雲別伝』では、趙雲と張飛が兵を率いて引き止めます。一方、二主妃子伝の注引『漢晋春秋』は、諸葛亮が趙雲を遣わしたと記します。細部の書き方には違いがあります。
「劉禅を連れて帰ろうとし、それを止められた」という筋は共通です。ただ、彼女の狙いが人質だったのか、別の事情だったのかは断定しません。行動の記録と、動機の推測を分けておきましょう。
出典:趙雲伝注引『雲別伝』
呉に戻った後の生活や最期は分からない
呉へ帰った後、孫夫人がどのように暮らしたかは分かりません。死因、没年、亡くなった年齢も、この記事で扱う史料からは確認できません。
再婚したのか、劉備への思いを持ち続けたのかも同じです。記録の空白を見ると、つい物語でつなぎたくなります。ただ、その空白から具体的な結末を導くことはできないんです。
『四史餘論』は帰呉後の最期を不明とし、入水の伝承にも疑問を示しています。これは後世の史論です。入水を否定する死亡記録があるという意味でもありません。史書の記録が途切れた後に、演義では別の結末が描かれるわけです。
最期の記録は限られていますが、人物そのものは史書に登場します。次は名前と家族関係を整理します。

劉禅さまが呉へ行くところでした。赤壁だけでなく、この川の上でも話が動くんですね。
孫尚香は実在?劉備との結婚と名前の違い


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
孫夫人の実在と、名前は分けて考えるのじゃ。
孫権の妹で、劉備の妻となった女性は史書に登場します。ですから、孫尚香のモデルとなる孫夫人は実在したと考えられます。
ただし、普段なじんでいる「孫尚香」という名前まで、史書で確認できるわけではありません。人物の存在と呼び名を分けると、話がつながります。
孫権の妹で、劉備の妻となった孫夫人
孫夫人は孫権の妹で、劉備と結婚した女性です。孫権側の家族でありながら、劉備の妻でもあるという関係を持っていました。まずは、この二つを押さえれば大丈夫です。
法正伝は彼女を、才知があり気性の強い女性として描きます。百余人の侍女が刀を持って控え、劉備が部屋へ入るたびに警戒したという記述もあります。
ゲームの勇ましい姿につながりそうな話ですね。侍女たちが控える部屋へ入る劉備を思い浮かべると、気を抜けない暮らしも見えてきます。ただし、この記述は彼女自身の戦場での武功を示すものではありません。
出典:『三国志』法正伝

劉備との婚姻には孫劉の関係を固める意味があった
劉備と孫夫人の婚姻には、孫権と劉備の関係を固める意味がありました。先主伝では、孫権が妹を嫁がせて友好を固めたと記しています。
そのため、政治的な結びつきのある婚姻として読めます。ただ、政治が関係していたことと、二人の感情が分かることは別です。仲が良かったとも、愛情がなかったとも、記録以上に言い切れません。
一方、法正伝には劉備が孫夫人を警戒する描写があります。「仲のよい夫婦」というイメージだけでは説明しきれない関係なんですね。夫の人物像も知りたくなったら、劉備の生涯と人柄をあわせて読んでみてください。
出典:『三国志』法正伝
「孫尚香」という名前や年齢は史実として確認できない
この記事で確認した史書は、彼女を孫夫人、または孫権の妹として記しています。「孫尚香」という個人名は確認できません。生年も分からないため、結婚時の年齢や劉備との年齢差も確定できません。
ゲームや漫画で親しんだ名前が、史書には見当たらない。少し不思議ですが、人物の呼び名と歴史上の記録は同じとは限らないんです。本記事では分かりやすさのため、孫尚香と孫夫人を併記します。
作品ごとに名前や年齢の設定が違うこともあります。新しい作品で彼女に出会ったら、孫権の妹・劉備の妻という関係を探してみてください。人物相関図の中で、同じ女性だと気づけるはずです。
出典:『三国志』法正伝
人物関係がつながったところで、子供や年齢などの疑問も一問一答で確かめてみましょう。

兄は孫権、夫は劉備。どちらの陣営にも身内がいるので、人物相関図では私の線が長くなりそうですね。
孫尚香の死因・家族に関するよくある質問


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
不明な年齢や再婚は、決めつけぬことじゃ。
帰呉の場面に劉禅が登場すると、孫夫人が実の母だったと思うかもしれません。しかし、二主妃子伝に記される劉禅の生母は甘夫人です。夫の子を連れて行こうとした話と、二人の子供の有無は別の疑問になります。
生母は史書で確認できる一方、孫夫人の年齢や帰呉後の再婚は確認できません。「家族の話」とまとめても、分かる範囲は項目ごとに違うんですね。目次直下の一問一答で5問を見直すときは、この違いに注目してみてください。
孫尚香は自殺したのですか?
『三国志演義』第84回では、劉備が死んだという誤報を聞き、川に身を投げたと描かれます。ただし、これは小説の場面です。正史からは孫夫人の死因を確認できず、自殺したと断定することはできません。
孫尚香は何年に、何歳で亡くなったのですか?
歴史上の孫夫人は、生年・没年ともに確認できないため、亡くなった年齢も分かりません。『三国志演義』の入水場面を、そのまま史実の没年にはできません。ゲームやドラマの設定とは分けて考えます。
孫尚香と劉備の間に子供はいたのですか?
孫夫人と劉備の二人の子として確認できる記録は、この記事で扱う史料にはありません。劉禅の生母は甘夫人で、孫夫人ではありません。ただし、記録がないことだけで、子供が絶対にいなかったとも断定できません。
孫尚香は劉備と何歳差だったのですか?
孫夫人の生年が確認できないため、劉備との正確な年齢差は分かりません。「何歳年下」とする数字を見るときは、どの史料や作品の設定に基づくかを確かめましょう。作品の年齢を史実の年齢として扱うことはできません。
孫尚香は呉に戻った後、再婚したのですか?
呉へ戻った後の孫夫人について、再婚を確認できる記録はこの記事で扱う史料にはありません。再婚したとも、しなかったとも断定できません。帰呉後の生活は不明で、演義の結末とも分けて読む必要があります。

劉禅さまの母は甘夫人。まず一本の線が引けると、家族の図もぐっと見やすくなりますね。
まとめ|孫尚香の死因は史実と物語を分けて読む


🗨️ 要するにこういうことなんじゃよ
史書の記録と、演義の物語を分けるのじゃ。
孫尚香の死因と没年は、正史では確認できません。『三国志演義』第84回では、劉備が死んだという誤報を聞き、川に身を投げたと描かれます。
歴史上の孫夫人は、孫権の妹で劉備の妻です。呉へ帰った記録はありますが、その後の最期まで分かるわけではありません。人物の実在と、物語の結末を分けておけば、混乱しにくくなります。
好きな作品に戻ったとき、「ここは史書にもある話」「こちらは物語の描き方」と気づけるでしょう。少し背景が分かるだけで、同じ人物をまた違う目で見られます。
ほかの女性にも興味が出てきたら、三国志の女性たちの紹介をのぞいてみてください。次に気になる一人が見つかるかもしれません。

史書と物語、両方の私を楽しんでもらえたらうれしいです。

コメント